⑫『大衆教育社会批判序説』

  • 絓秀実『大衆教育社会批判序説』(秀明出版会〔発言者双書4〕、平成10年11月3日初版第1刷印刷/平成10年11月15日初版第1刷発行)
    装丁 芦澤泰偉

第一章 大衆教育社会と大学・短大・専門学校


Ⅰ 教育の大衆化と大学*1

  • 敵役としての大学
  • 対抗的教育者
  • ジャーナリスティックな大学
  • アカデミズムの「復活」

Ⅱ 唯野教授の大学改革*2

  • 大学改革論議の「起点」
  • バブル期の大学
  • 大学淘汰は起こらない
  • 唯野教授はどのような人か?

Ⅲ 大衆教育社会のなかの「実学*3

  • 大学の専門学校化
  • 結婚という名の「実学
  • 「進歩派」のきれいごと
  • 実学」から「遊学」へ

Ⅳ 大学における「一国平和主義」*4

  • フリーター志願の学生たち
  • 大学の流動化は可能か
  • 学歴システムはすでに崩壊している
  • 骨を切らせて肉を切る

Ⅴ 開発独裁下の「学問の自由」*5

  • 波方式の一般化
  • 学生中心の大学教育
  • 開発独裁」の導入
  • 「先進国」における知識人

Ⅵ 「環境」と「地域」のパラドックス*6

  • 郊外大学の実態
  • ゴム焼却場か女子大か
  • 文部省の管理政策
  • 学生の就職不足と教員


第二章 国民国家を再生させる装置


Ⅰ 『学問のすゝめ』は大衆社会でも有効か?*7

  • 平等と葛藤の場としての学校
  • 「教育」と「研究」の矛盾?
  • 一芸入試」の悪しき意図
  • ポスト「大・東・亜・帝・国」の時代
  • 「立身出世主義」の帰趨

Ⅱ そのために死にうる「国家」*8

  • 国民的主体と市民的主体
  • 従軍慰安婦問題をめぐる論争
  • 市民的論理の限界
  • 論理化されない「国民」概念

Ⅲ ゾンビの共同体*9

  • ポスト・アメリカとしての日本
  • 「死すべき存在」からゾンビへ
  • 拠るべき「共同体」はあるか
  • 「適性」な職業選択は可能か?

Ⅳ 近代の記憶装置と忘却*10

  • ベケットを知らぬ観客
  • 「教養」の崩壊
  • 知的頽廃にいたる
  • 「民族」を羨望する「市民」

Ⅴ ピンク映画とエリート*11

  • 「金の卵」の帰趨
  • 新たな階級の生産
  • 地方名門校の崩壊
  • 「ゆとり」と「偏差値」

Ⅵ 学歴中心主義と資本制*12

  • 階級を作る場として
  • 溶解する資本主義の「信用」
  • モラトリアム期間の延長
  • 就職を拒否する若年層

Ⅶ 「金利生活者」としての学生層*13

  • ナショナリズムと「資本主義の精神」
  • 「おたく」的プロフェッショナリズム
  • 労働を軽蔑する「精神」
  • 利子生み資本としての学歴


第三章 世紀末的諸問題と教育


Ⅰ 「甘言」を保護する装置*14

  • 名前のない学校
  • 奇怪なグラビア記事
  • ヤワラちゃん」は世界一か?
  • 社会的チェック機能の失調

Ⅱ 歴史相対主義と「享楽」*15

  • 国際的な「カルスタ」ブーム
  • 「保守」と「左翼」の悪循環
  • アカデミズムを「享楽せよ」
  • 相対化される「正しさ」

Ⅲ 国民皆兵・家・義務教育*16

  • 「小さな大人」の復活
  • 「オムレツ」の保護
  • イニシーションの解体
  • 酒鬼薔薇」の家

Ⅳ 「男らしさ」のディレンマ*17

  • フェミニズムの失墜
  • アメリカ的「男らしさ」の帰結
  • セクハラ告発論の逆説
  • 「決断」不可能性のなかの決断


第四章 座談会 絓秀実+呉智英藤井良樹
モラトリアム諸君、甘言にダマされるな──装置としての専門学校・セイフティー私大*18

  • 教育システムにおけるエントロピー問題
  • 専門学校は「宝くじ」なのか!?
  • 「世の中を甘く見させてあげる場」の必要性
  • 「甘く見る」若者たちに「甘くない」と言うこと
  • 若者たちを食いものにする大人たち
  • アジールとしての専門学校
  • 学生運動よ、起これ!」
  • 苦肉の策としての「知の三部作」
  • 苦悩する国家権力
  • 教育体制の行きづまりと横にずれていくこと
  • ネイションの成熟と指導者の不在


あとがき
初出一覧*19


「「環境」と「地域」のパラドックス」のなかに以下の記述がある(p.61)。

 最近ある雑誌で、偏差値五〇〜六〇程度の──つまり、一般的に言えば二流から三流の──私立大学の教員が三人集まって座談会をやっているのを読んだ(もちろん、偏差値が低い大学にもマトモな教員はいるし、高偏差値大学にもロクでもない教員がいることは自明である、為念)。一人はマルクス経済学者、一人は柳田国男研究家、一人はフランクフルト学派研究家であり、それなりにジャーナリズムでも活動してきたと自負しているであろう者たちだ。三人とも六〇年代から「左翼」を自他ともに許していた(いる?)人々であり、今は何らかのかたちで「大学改革」にかかわっている中堅(上級?)管理職的存在らしい。

 余りにもおぞましいから、彼らの名前も座談会掲載誌も明らかにしないことにするが、彼らが口を揃えて言っていることと言えば、「うちの大学は、多分、定員割れをしないだろう」ということなのである。つまり、バカなサラリーマンたちが酒場で「うちの会社は不況でも大丈夫だ」と安堵し合っているのと同じなのだ。

この「バカ教員」による「余りにもおぞましい」座談会は『情況』1997年11月号での特集「教育「改革」批判──リストラされる知」の一環で行われた吉田憲夫、後藤総一郎、清水多吉「「知の抹殺」への警鐘」である。吉田憲夫は大東文化大学マルクス経済学者、後藤総一郎は明治大学柳田国男研究家、清水多吉は立正大学フランクフルト学派研究家。なお、この特集では柄谷行人と絓秀実と水島武による鼎談「東大は滅びよ──「改革」の虚妄」も掲載されている。


『大衆教育社会批判序説』書評

  • 寺脇研「リアルな現状認識に立つ 従来の大学論とは明確に違う切り口」(「週刊読書人」1999年2月19日号)
  • 小倉虫太郎「無題」(「情況」1999年3月号)

*1:「発言者」1996年8月号、原題『ジャーナリズムの崩壊と大学』

*2:「発言者」1996年9月号

*3:「発言者」1996年12月号

*4:「発言者」1997年4月号

*5:「発言者」1997年5月号

*6:「発言者」1998年1月号

*7:「発言者」1996年10月号

*8:「発言者」1997年1月号

*9:「発言者」1997年2月号

*10:「発言者」1997年6月号

*11:「発言者」1997年7月号

*12:「発言者」1997年9月号

*13:「発言者」1998年3月号

*14:「発言者」1996年11月号

*15:「発言者」1997年3月号

*16:「発言者」1997年10月号

*17:「発言者」1998年2月号

*18:「情況」1996年7月号

*19:「注・発行にあたり、加筆・修正した部分もあります。」