シラー作「人質」

小栗孝則譯『新編シラー詩抄』(改造文庫、昭和十二年七月十六日印刷/昭和十二年七月二十日發行)

 人質 譚詩


暴君ディオニスのところに
メロスは短劍をふところにして忍びよつた
警吏は彼を捕縛した
「この短劍でなにをするつもりか? 言へ!」
險惡な顔をして暴君は問ひつめた
「町を暴君の手から救ふのだ!」
「磔になつてから後悔するな」──


「私は」と彼は言つた「死ぬ覺悟でゐる
命乞ひなぞは決してしない
ただ情けをかけたいつもりなら
三日間の日限をあたへてほしい
妹に夫をもたせてやるそのあひだだけ
その代り友逹を人質として置いてをこう
私が逃げたら、彼を絞め殺してくれ」


それを聞きながら王は殘虐な氣持で北叟笑んだ
そして少しのあひだ考へてから言つた
「よし、三日間の日限をおまへにやらう
しかし猶豫はきつちりそれ限りだぞ
おまへがわしのところに取り戾しに來ても
彼は身代りとなつて死なねばならぬ
その代り、おまへの罰はゆるしてやらう」


さつそくに彼は友逹を訪ねた。「じつは王が
私の所業を憎んで
磔の刑に處すといふのだ
しかし私に三日間の日限をくれた
妹に夫をもたせてやるそのあひだだけ
君は王のところに人質となつてゐてくれ
私が繩をほどきに歸つてくるまで」


無言のままで友を親友は抱きしめた
そして暴君の手から引き取つた
その場から彼はすぐに出發した
そして三日目の朝、夜もまだ明けきらぬうちに
急いで妹を夫といつしよにした彼は
氣もそぞろに歸路をいそいだ
日限のきれるのを怖れて


途中で雨になつた、いつやむともない豪雨に
山の水源地は氾濫し
小川も河も水かさを增し
やうやく河岸にたどりついたときは
急流に橋は浚はれ
轟々とひびきをあげる激浪が
メリメリと橋桁を跳ねとばしてゐた


彼は茫然と、立ちすくんだ
あちこちと眺めまはし
また聲をかぎりに呼びたててみたが
繋舟は殘らず凌はれて影なく
目ざす對岸に運んでくれる
渡守りの姿もどこにもない
流れは荒々しく海のやうになつた


彼は河岸にうづくまり、泣きながら
ゼウスに手をあげて哀願した
「ああ、鎭めたまへ、荒れくるふ流れを!
時は刻々に過ぎてゆきます、太陽もすでに
眞晝時です、あれが沈んでしまつたら
町に歸ることが出來なかつたら
友逹は私のために死ぬのです」


急流はますます激しさを增すばかり
波は波を捲き、煽りたて
時は刻一刻と消えていつた
彼は焦燥にかられた、つひに憤然と勇氣をふるひ
咆え狂ふ波間に身を躍らせ
滿身の力を腕にかけて流れを搔きわけた
神もつひに憐愍を垂れた


やがて岸に這ひあがるや、すぐにまた先きを急いだ
助けをかした神に感謝しながら ──
しばらく行くと突然、森の暗がりから
一隊の强盜が躍り出た
行手に立ちふさがり、一撃のもとに打ち殺そうといどみかかつた
飛鳥のやうに彼は飛びのき
打ちかかる弓なりの棍棒を避けた


「何をするのだ?」驚いた彼は蒼くなつて叫んだ
「私はいのちの外にはなにも無い
それも王にくれてやるものだ!」
いきなり彼は近くの人間から棍棒を奪ひ
「不憫だが、友逹のためだ!」
と猛然一擊のうちに三人の者を
彼は仆した、後の者は逃げ去つた


やがて太陽が灼熱の光りを投げかけた
つひに激しい疲勞から
彼はぐつたりと膝を折つた
「おお、慈悲深く私を强盜の手から
さきには急流から神聖な地上に救はれたものよ
今、ここまできて、疲れきつて動けなくなるとは
愛する友は私のために死なねばならぬのか?」


ふと耳に、潺々と銀の音色ねいろのながれるのが聞こえた
すぐ近くに、さらさらと水音がしてゐる
じつと聲を呑んで、耳をすました
近くの岩の裂目から滾々とささやくやうに
冷々とした淸水が涌きでてゐる
飛びつくやうに彼は身をかがめた
そして燒けつくからだに元氣をとりもどした


太陽は綠の枝をすかして
かがやき映える草原の上に
巨人のやうな木影をゑがいてゐる
二人の人が道をゆくのを彼は見た
急ぎ足に追ひぬこうとしたとき
二人の會話が耳にはいつた
「いまごろは彼が磔にかかつてゐるよ」


胸締めつけられる想ひに、宙を飛んで彼は急いだ
彼を息苦しい焦燥がせきたてた
すでに夕映の光りは
遠いシラクスの塔樓のあたりをつつんでゐる
すると向ふからフィロストラトスがやつてきた
家の留守をしてゐた忠僕は
主人をみとめて愕然とした


「お戾りください! もうお友逹をお助けになることは出來ません
いまはご自分のお命が大切です!
ちようど今、あの方が死刑になるところです
時間いつぱいまでお歸りになるのを
今か今かとお待ちになつてゐました
暴君の嘲笑も
あの方の强い信念を變へることは出來ませんでした」──


「どうしてもに合はず、彼のために
救ひ手となることが出來なかつたら
私も彼と一緖に死のう
いくら粗暴なタイラントでも
友が友に對する義務を破つたことを、まさか褒めまい
彼は犧牲者を二つ、屠ればよいのだ
愛と誠の力を知るがよいのだ!」


まさに太陽が沈もうとしたとき、彼は門にたどり着いた
すでに磔の柱が高々と立つのを彼は見た
周圍に群衆が撫然として立つてゐた
繩にかけられて友逹は釣りあげられてゆく
猛然と、彼は密集する人ごみを搔きわけた
「私だ、刑吏!」と彼は叫んだ「殺されるのは!
彼を人質とした私はここだ!」


がやがやと群衆は動搖した
二人の者はかたく抱き合つて
悲喜こもごもの氣持で泣いた
それを見て、ともに泣かぬ人はなかつた
すぐに王の耳にこの美談は傳へられた
王は人間らしい感動を覺えて
早速に二人を玉座の前に呼びよせた


しばらくはまぢまぢと二人の者を見つめてゐたが
やがて王は口を開いた。「おまへらの望みは叶つたぞ
おまへらはわしの心に勝つたのだ
信實とは決して空虛な妄想ではなかつた
どうかわしをも仲間に入れてくれまいか
どうかわしの願ひを聞き入れて
おまへらの仲間の一人にしてほしい」