- 絓秀実 高澤秀次 宮崎哲弥『ニッポンの知識人』(KKベストセラーズ、1999年2月5日初版第1刷発行)
【編集企画協力】高木真明
【執筆協力】鹿嶋海馬 見崎鉄 比賀始 池田雄一 酒井隆史
装幀◆福島源之助+芳賀沼直子
はじめに 闘争の開幕に寄せて(宮崎哲弥)
第1部 鼎談「ポスト
近代 の超克」 知識人と世紀末ニッポンを読む(絓秀実 高澤秀次 宮崎哲弥)
PART1 知識人と日本の変容 「戦後・1945年」〜「世紀末・1999年」
- 「大衆知識人」の登場
- 大衆社会論VS「大衆の原像」論
- 「宇野・廣松の問題を再検討せよ!」
- 吉本勝利のあとさき
- 葬送派=日本のヌーヴォー・フィロゾーフ?
- ポスト獲得闘争という発端
- メディアヒエラルキーの崩壊とサブカルの潜行
- 「開かれない」知識人の言葉
- 丸山眞男と〝戦後啓蒙〟
- 世界ランキング入りする日本の知識人は?
- 言語/リアル/神秘
- 変幻自在!中沢新一の「神秘」概念
PART2 ポストモダン!ポストバブル!ポスト国民国家! 戦後民主主義のなかの「主体」
- 「終わりなき日常」と「終わりなき資本主義」
- 「小さな物語」と私語りが日本を覆う!
- 大激論!資本主義とネーションステート
- ポジティヴな「無責任」思想
- 加藤典洋『敗戦後論』をめぐって
- 蓮實・柄谷インパクトのあと
- 憲法論とナショナリズム
PART3 平成知識人の診断書 知的であるということ
知識人マップ
【知識人マップ解説】
第2部 知識人ミシュラン インテリたちの通信簿
- 埴谷雄高──自己神話化という永久革命を実践したアンドロメダ大星雲の難解王
- 加藤周一──「進歩的知識人」を演じ続ける朝日論壇座の長
- 江藤淳──ルサンチマンと華麗な社交術が明滅する反米「文士」
- 山崎正和──終わりなき「物語」を生きる「柔らかい個人主義」者
- 大江健三郎──岩波文化の「遅れ」と伴走するホットなノーベル賞作家
- 西尾幹二──ナショナリズムを測量設計するニッポン歴史修正主義の大将
- 蓮實重彥──左翼的物語を序説とするポストモダンの「凡庸」でないスーパースター
- 柄谷行人──日本思想界の最高峰をめざす業界のヘゲモンにして単独者
- 加藤典洋──戦後民主主義の実体化がテーマの〝全共闘世代〟代表
- 福田和也──右翼でパンクする老成した新世紀の浪漫批評家
- 久野収──在野を貫く「市民主義」イデオローグの最長老
- 吉本隆明──モデルチェンジにいまなお挑む戦後思想界「不敗」の巨人
- 今村仁司──現代思想の定番解説にもいそしむ「労働」「暴力」の哲学者
- 中村雄二郎──知のカットアップ、サンプリングにたけた現代思想のクラブDJ
- 廣松渉──キモは全共闘世代に影響与えた世界的(!)「疎外論」批判
- 中沢新一──不真面目とオカルトが隠し味のマーケティング唯物論者
- 鵜飼哲──フランス思想の輸入技術が問われるポスト新左翼のインパクト
- 丸山圭三郎──唯言論の果てに「向こう側」を見たダンディな言語学者
- 河合隼雄──ニッポン「癒しの時代」に引く手あまたのユング派分析家
- 木村敏──「あいだ」をキーワードに「日本的自己」を解読する精神病理学者
- 岸田秀──「唯幻論」で森羅万象を切りまくる無頼の心理学者
- 赤間啓之──マニアしか相手にしない?ラカンの偏愛研究家の実力
現代の倫理学者たち
- 丸山眞男──戦後民主主義を死守せんとした知的エリート
- 鶴見俊輔──庶民信仰を錦の御旗とする草の根「思想家」
- 藤田省三──近代全体主義に歯向かった孤立無援の闘争者
- 見田宗介──幻想領域から「地上の実践」に向かう詩人学者
- 上野千鶴子──「女だってスケベ」の戦略で八〇年代フェミニズムに風穴開けた突破者
- 橋爪大三郎──近代社会のセピア画面をドライブする言語ゲーマー
- 大澤真幸──デリケートな「理論のための理論」に憑依された生粋の社会学者
- 宮台真司──社会を過激に微調整する市場と快楽主義の戦略家
- 小室直樹──奇矯さにひそむ社会理論「学統」のアカデミシャン
- 西部邁──枯れた声で「伝統」を叫び続けるロマンの保守思想家
- 栗本慎一郎──経済人類学で資本主義の危機を乗り越えた元祖ニューアカ
- 岩井克人──資本主義の普遍性に自足するウリなき形式論理エコノミスト
- 川勝平太──「海洋史観」で瞠目される経済史の気鋭
- 佐伯啓思──現代民主主義を狙い撃つポストモダン系?保守思想家
- 浅田彰──手際鮮やかな現代思想の交通巡査で知のデュエリスト
論壇系 歴史・民族・啓蒙・ジャーナリズム24人
- 梅棹忠夫──「日本のモダン」に生命吹きこんだ生態史観論者
- 司馬遼太郎──厭戦意識を「明るい明治」観でくるんだ最後の国民作家
- 梅原猛──日本人の神話的古層に熱情注ぐ政治的ネオ縄文人
- 網野善彦──日本=定住農耕社会のイメージを塗り替えた歴史ロマン派
- 山ロ昌男──「中心と周縁」理論で七〇年代を席捲した行動する知のゲリラ
- 阿部謹也──被差別者を軸に中世ヨーロッパを再解釈する歴史家
- 加地伸行──儒教精神に支えられたポップな新鎖国主義者
- 松本健一──占領下日本の原風景に呪縛された思想史家
- 山内昌之──民族問題の歴史性を告知する名ガイド
- 山本七平──「日本教」の本質を伝える民衆の語り部
- 谷沢永一──論争術にたけた反動タカ派書鬼
- 渡部昇一──歴史の再演に心寄せる民族国家主義者
- 藤岡信勝──ニッポンの生徒たちの耳もとでイデオロギーを絶叫する熱血教師
- 芹沢俊介──穏当な自立派にしてニッポン家族論を牽引する知性
- 鷲田小彌太──「教養」を「北の国から」マジメに流布する欲望主体の現象学
- 呉智英──よしりんのブレーンも務めるマンガ好き元祖サブカル保守
- 竹田青嗣──「在日という根拠」から言葉を放つ、歌う万年哲学青年
- 笠井潔──「マルクス葬送派」出身の推理作家の新境地はリバータリアニズム
- 永井均──「この私」の思想で「世界」にたたずむ久びさ登場話題の哲学伝導師
- 浅羽通明──オタク派から現実技巧派に転身したサブカル「思想家」
- 大塚英志──右から左まで横断するジャーナリスティックなオタク評論家
- 小林よしのり──物語のメビウスリングを疾駆する天才ギャグ作家
- 養老孟司──解剖の対象は漱石から聖子までの「ノー先生」
- 立花隆──巨大な人工胃袋をもつ知のグルメ
あとがき(絓秀実)
宮崎 大塚は、何をもってサブカルチャーと定義しているのか。私にはあまりわかりませんね。大塚のサブカルチャー概念は、「様々な表象を、本来の歴史的文脈や主体的意思から剥離して、無秩序に寄せ集め、張り合わせた」シロモノぐらいの意味でしょう。これは確かにある文脈では当たっているのです。私はすでに、これとほぼ同じことを、小泉今日子と秋山道男を論じた文章のなかで指摘しています。(「『小泉今日子』の時代の終焉」一九九四/『正義の見方』所収 一九九五 洋泉社)。けれど、それはサブカルの一側面に過ぎなくて、これだけだったら、実につまらんブリコラージュ論にすぎないわけでしょ。しかも、こうした用語法は、大塚の批評文の中だけで完璧に閉じられているのに、定義はいつも揺動していて、一定していないんですよ。こういうのは、大昔の文芸時評の手口ですね。こんなやり方がまだ通用する、文芸誌ってホントに不思議なメディアだと思うなあ。
サブカル本流の中核は、ポップ・ミュージックのスタイルです。あと、文字通りのスタイル。とくにプレタポルテ系のモードね。それからCMのスタイル。そしてドラッグ、ダンス。小説とか、マンガやアニメなんかの意味系、物語系は、ピュアなサブカルじゃないに決まっている。文学史なんか関係ないです。サブカルにとって、どーでもいいことです。ちなみに、サブカル評論の最高傑作は、田中康夫の『たまらなく、アーベイン』(一九八四 中央公論社)ですよ。ポップ・ミュージックのスタイルににじり寄った唯一の文体です。当時、おしゃれな遊び人の大学生は、みんな持ってましたよ。中森明夫の『東京トンガリキッズ』(一九八七 JICC出版局/現宝島社)や田口賢司の幾つかの小説もまた、サブカルになりえた数少ない書物の一つでしょう。いまや、こういう仕事ってホント少なくなったよねぇ。近田(春夫)さんの『考えるヒット』(一九九八 文藝春秋)とか、清野栄一の『レイヴ・トラヴェラー』(一九九七 太田出版)とか、『サバービア・スウィート』系の、クラブDJ系たちによるレヴューぐらいじゃないですか。サブカルチュラルな「スタイルの文章」って。とにかく、野暮なオタクにサブカルを規定されたくないって感じがするんですが、絓さんはどう思われます。
35〜37頁からの引用であるけれど、宮崎哲弥がサブカルチャー概念についていささか得意気に講釈しているのである。「中森明夫の『東京トンガリキッズ』〔…〕もまた、サブカルになりえた数少ない書物の一つでしょう」という発言は宮崎哲弥の選択眼(審美眼?)に一抹の疑念を抱かせるものであると思う。また、清野栄一への言及があるけれど、『週刊文春』2009年3月5日号掲載の「仏頂面日記(125)」には次の記述がある。
『ニュースの深層』(朝日ニュースター)。二十代からの友人に登場してもらった。作家の清野栄一だ。
大学のサークルが一緒で、そこでアヴァンギャルドな映画や音楽の話ばかりしていた。お互いテイストは異なるものの、奇矯なファッションでキャンパスを闊歩し、いかにも「ビジネス界寄りの大学です」という雰囲気に馴染んだ学生たちの顰蹙を買っていた。
以前にも書いたが、どういうわけか私の友人には、微温的な学風に反逆して世に出た者が多い。右翼思想研究家の片山杜秀、音楽評論家の許光俊、翻訳家の徳川家広、そして清野だ。