池田✕東✕中島✕鎌田

池田信夫民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』」(2011年11月27日)

本書の「現代性」は、一般意志をソーシャルメディアと重ね合わせて一種のデータベースと考え、そこに集合的無意識としての「一般意志2.0」が成立すると考えたところだ。これは『スマートモブズ』などでおなじみの「集合知」の話だが、政治的には無意味なユートピアニズムでしかない。それは国家が何よりも暴力装置だという事実を理解していないからだ。
 〔…〕
本書は国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない。集合知で政治を動かすことはできないし、そういう「参加民主主義」は望ましくもない。


東浩紀氏ロングインタビュー 日本発の新しい民主主義 『一般意思2.0』(講談社)の刊行を機に」(『週刊読書人』2012年1月6日号2面)

 ──発売ひと月ですが、見当はずれの批評はありましたか。
  一番見当はずれは、池田信夫氏ですね。発売直後、大阪ダブル選挙に合わせて『一般意思2.0』はポピュリズムだという書評がネットにあがったのですが、あまりにも僕の本の内容と違うので、なにも読んでないで推測だけで書いたんだと思います。


中島一夫「国家と国家の「間=外」の認識 『探究』以来、根幹にあるもの 柄谷行人著『「世界史の構造」を読む』」(『週刊読書人』2012年1月13日号4面)

 去る十一月二十七日の大阪府知事、市長ダブル選挙で、橋下徹氏率いる大阪維新の会が圧勝した。大阪在住の「人民」として、この結果を肯定したい。むろん橋下氏を支持しているのではない。「民主か独裁か」が問われた選挙で、大阪府民・市民は、「独裁」を選択したわけだ。公然と口にされた「独裁」が、いつのまにか受け入れられるような世の中になったのなら、「プロレタリア独裁」まであと一歩ではないか。
 三・一一以降、「民主」は政官財の癒着した「ブルジョア独裁」でしかないことがいよいよ明らかになった。既成政党のもとでの「民主」主義政治はもうたくさんだ──。そうした閉塞感を打破するものとして、「独裁」が待望されたのも無理はない。問われているのは、橋下氏本人や大阪都構想ではなく、「民主」主義そのものなのだ。
 この期に及んでルソーを持ち出して「一般意思2.0」などと言っている場合ではない。池田信夫もブログにいうように、そうした参加民主主義も含めた「民主主義の過剰」こそが閉塞感の源なのだから。ソーシャルメディアによる集合知も、暴力装置としての国家を思考していない時点で「政治的には無意味なユートピアニズムでしかない」。
 本書の柄谷行人は、前著『世界史の構造』にも増して、革命は「世界同時革命」でなければならないと強調する。暴力装置としての国家の揚棄は、それによってしかあり得ないからだ。


「座談会=鎌田哲哉・松村浩行・田代ゆき・田中芳秀 「批判精神」よ生まれよ」(『週刊読書人』2012年2月17日号1面)

 鎌田 〔…〕来る前に読んだんですが、中島一夫橋下徹や維新の会の圧勝を、「プロレタリア独裁」まで「あと一歩」だから肯定したい、と言っている。しかも、大阪在住の「人民」としてそうする、と気張って言うんです(本紙1月13日号4面)。自分では気の利いた逆説のつもりかもしれないが、これは中島岳志よりあさましい、取り返しの付かない発言だと言えるでしょうね。中島(一夫)さんは結局、大阪府警が『長居青春酔夢歌』の佐藤零郎監督を不当逮捕して、メディアも全くこの問題を取り上げずにいる現状はもちろん、朝鮮学校の「無償化」排除問題や君が代の起立条例にすら興味がないわけでしょう。わかりやすい刺激に目を奪われて、「目に見えない」事態の進行、震災のどさくさまぎれに自分の生活圏で積み重なる状況悪化へのセンサーすら欠いている。そういうあり方は、花田や武井と到底無縁だし、どうしても自己規定したければ、「人民」ではなく「マルチチュード」(死語)程度がお似合いじゃないですか。中島さんがそうだから、市川真人や可能涼介、宇野常寛など、狭いコップで争うごろつきどもに、花田や武井の「批評」が理解できないのは仕方ない。このレベルにまで落ちると、何かの危機を察知するどころか、力もないのにちょろちょろ動いて権力維持(?)にあくせくするとか、自分がいかに不利で不幸かを被害者的に競い合うとか。だた情けない、読む側が恥しくなる言動で頭が一杯のようですね。


中島一夫鎌田哲哉の「歴史の偽造」について」(『週刊読書人』2012年3月9日号7面)

 本紙2月17日号の座談会「「批評精神」よ生まれよ」において、鎌田哲哉は、あたかも私が、橋下徹氏や維新の会自体を肯定しているかのように述べている。だが、これこそ、かつて鎌田自身も大西巨人との対談(『未完結の問い』)で問題にした「歴史の偽造」というやつではないのか。
 確かに私は、橋下氏率いる維新の会圧勝について、「大阪在住の「人民」として、この結果を肯定したい」と書いた(本紙1月13日号)。だが、次の一文で「むろん橋下氏を支持しているのではない」と明言しているのである。にもかかわらず、鎌田は、こちらは都合よくオミットする。橋下「支持」ではなく、選挙「結果」の「肯定」だと書いた、その差異を無視する。あるいは、鎌田自身の言葉を借りれば、その差異への「センサーすら欠いている」。
 では、なぜ「結果」の「肯定」なのか。その理由についても私は書いている。それは、この選挙「結果」が、極めて限られた選択の中で、少なくとも現行の体制を存続させるための組織票、すなわち「既成政党のもとでの「民主」主義政治」は「もうたくさんだ」という府民・市民の思いを反映していたからだ、と。ならば、この「結果」はネガティヴに(のみ)捉えるべきでなく、選挙を通して結果的に体制を支えてきた府民・市民が、それを良しとしない「人民」へと生まれ変わる一歩としてポジティヴに捉え得るのではないのか。


鎌田哲哉「「「プロレタリア独裁」まであと一歩」はどこに消えたか?──中島一夫への答え」(『週刊読書人』2012年4月13日号2面)

 私に関する部分で、自分は書評で「橋下氏を支持しているのではない」とも書いたのに、鎌田は一文を「都合よくオミット」した、それは「歴史の偽造」だ、と中島は言う。無論これは「歴史の偽造」でなく、いかに不快で心外でも彼は私の批評を甘受すべきだ。なぜなら、私が標的にした「取り返しの付かない発言」とは(中島がそう思わせたがるのと違い)彼が橋下の圧勝を「肯定」した事実だけでなく、この判断の正当化に用いた愚劣な理由付けのことだからだ。中島は今回、渋々前者は認めるが、なぜか後者は書評も私の発言も一切引用していない。だから確認する。彼の書評は、ゆるぎない「自分の論理」の持主の不屈の状況介入などではない。中島は特定の出来事、即ち「橋下徹氏率いる大阪維新の会」の圧勝を「肯定」し、それを「あと一歩」だ、という理由で正当化したのだ。そこには「わかりやすい刺激」に反射的に食いつき、過剰にそれを意味付ける幻想以外何もなく、時代を画する事態が生じたと浮つく感傷において、中島と橋下支持者に一切「差異」もない。支持し肯定する「正直者」と、肯定するが支持しない「気の利いた逆説」は同一の視野狭窄=「運動」の不在に陥っているのだ。


中島一夫鎌田哲哉に再反論する」(2012年4月19日)

 「週刊読書人」4月13日号の鎌田哲哉『「プロレタリア独裁まであと一歩」はどこに消えたか?──中島一夫への答え』を読んだ。あいかわらず言いたい放題に言っているが、ローザ主義の鎌田が、プロレタリア独裁だけはできれば遠ざけておきたいということはよく分かった。そして、プロレタリア独裁を考えないということは、「権力」の問題を避けて通ることを意味する。