四方田犬彦と東浩紀

発端は四方田犬彦が「ガロ」に連載していた日録「犬も歩けば」の1996年1月分の記述の一部であろう。

 一月二日
 十人ほどが新年会に来る。こないだ上海で買ってきたアヒルを料理する。わりとうまくできた。出口三奈子・良兄妹*1イクラとタラコとオキヅケをどっさりもってきてくれる。ニーナとトシが東大の上佑クンという渾名の学生を連れてきた。なるほどそっくりだ。東浩紀というこの学生はひとりでデリダだとか、ドゥルーズだとか、誰もここではわからないことを酔っ払って叫んでいる。NYではどんなパーティでもこうした場違いな人物が一人は混じっていたものだった。最後に辰ちゃんが呑み足りない連中を連れて、新宿のゲイバーに引張っていく。
 クラコフのアンナ・シュリヴァからカードが来る。なつかしさでいっぱいになる。あのおとぎ話のような邑に行ったのは、もう四年もまえのことだ。
四方田犬彦「一九九六年 高輪」(『星とともに走る 日誌 1979-1997』七月堂1999年2月刊、322頁)❞
星とともに走る―日誌1979‐1997

当時24歳の大学院生であった東浩紀が四方田氏邸で開かれた新年会に、四方田氏の知人であろう「ニーナとトシ」に連れられて参加した際の出来事が揶揄的に描写されている。東氏はこの当時すでに季刊誌「批評空間」で「デリダ試論」の連載を開始しているので、〝無名〟の青年ではない。


この日録を「ガロ」1996年3月号(?)の初出で東氏は読んだであろう。この新年会から約11ヶ月後、「新潮」1997年1月号初出の文芸時評で東氏は以下のように四方田氏について言及している。

 ほか今月で批評的な鈍感さを感じさせたものは、四方田犬彦の発言だ。「すばる」特集・中上健次の世界'96は、八月に開かれたシンポジウムの抜粋を収録している(「果てなきテクストをめぐって」)。四方田はそこで「我々はなぜ中上の書いた『地の果て 至上の時』にしても、『軽蔑』にしても、中上の書いたものとしてだけしか読めないのか」と問い、中上について「饒舌に饒舌を重ね」る参加メンバーの姿を「滑稽」だと述べる。この苛立ちは部分的に理解できる。中上をめぐる状況はいささか異常だ。漠然とした評価がきわめて高い一方で、誰もその具体的根拠を指摘しない。この状況を変えるためには、「中上」という名の特権化をやめ具体的テクストに向かわねばならない。これは正しい。にもかかわらず結局四方田の批判が空疎なのは、彼が「具体的読解が必要だ」と述べること﹅﹅﹅﹅﹅しかできないからである。述べること﹅﹅﹅﹅﹅(当たり前だが)行うこと﹅﹅﹅﹅とは異なる。四方田は両者を混同している。それゆえ彼の批判は、まさにそのスタイルによって﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、中上についての空疎で抽象的なおしゃべりに再び属している。饒舌さを批判する四方田に対し「でも、あなたがいちばん饒舌じゃない?」と返す浅田彰は、この点でまったく正しい。ものごとはもっと具体的に、率直に語られねばならない。
東浩紀文芸時評 一九九七年一月」(『郵便的不安たち』朝日新聞社1999年8月刊、185-186頁)❞
郵便的不安たち


参考として東氏が文芸時評で言及しているシンポジウムにおける四方田氏の発言を引用する。

四方田 〔…〕二十世紀のアートがなぜ作者の名前でもって語られなきゃいけなかったのか。そして、我々はなぜ中上の書いた『地の果て 至上の時』にしても、『軽蔑』にしても、中上の書いたものとしてだけしか読めないのかということは、ぐっと外側に回って考えてみたいという感じがします。
浅田 僕は、中上健次は近代小説家なのだから、中上健次についてストレートに語ればいいと思うんです。
 〔…〕
四方田 津島佑子が書いていることですが、ドイツでシンポジウムをやって、中上健次津島佑子や、いろんな人が出た。その際に「部落」という言葉が出て、その意味がよくわからないドイツの観衆に、簡単に説明してくれないか、と言われた。そばにいた津島佑子に頼んで、百科事典に出てくるような形で説明してもらった。でも、中上は、そうじゃない、そんなものじゃないんだと言う。じゃあ、あなたがちゃんと説明してくれないかとドイツ側が言ったら、中上は、それはできないと口ごもってしまう。あのシンポジウムにおいて中上が口ごもっていることと、その後に取り残された者たちがここにズラリと並んで饒舌に饒舌を重ねているというのは、非常に対照的で滑稽な感じがします。
浅田 でも、あなたがいちばん饒舌じゃない?
柄谷行人浅田彰四方田犬彦渡部直己島田雅彦松浦理英子いとうせいこう奥泉光+絓秀実+高澤秀次+ジャック・レヴィ「果てなきテクストをめぐって」(「すばる」1996年12月号、142・145頁)❞

ここで東氏は明らかに日録で揶揄されたことを根に持って四方田氏を批判している。「漠然とした評価がきわめて高い一方で、誰もその具体的根拠を指摘しない」という記述は四方田氏を批判するために無理に拵えた前提であり、このシンポジウムで各出席者は──座談ゆえの限界はあるものの──具体的に分析しているのである。そもそも四方田氏は1987年に中上健次論『貴種と転生』を上梓し、シンポジウムが催された1996年8月には『貴種と転生』を増補改訂した『貴種と転生・中上健次』を上梓しているのだから、少なくとも四方田氏に対し、述べるだけで行わない、という批判は当らない。加えて四方田氏はシンポジウムで「『具体的読解が必要だ』」という発言はしていないのであり、発言内容の要約であるとしても歪曲である。
東氏は2010年8月15日に次のツイートをしている。

「ニーナとトシ」に連れられて行ったのだから「強引に誘われ」という記述は正確であろう。また先に記したように当時の東氏は25歳ではなく24歳であった。このツイートからも四方田氏から受けた揶揄が東氏を傷付けたのは慥からしいことがわかる。


2010年におそらく書き下ろしで刊行された四方田氏のエッセイ集『人、中年に到る』には、実名は匿されているが東氏を指すであろう人物についての記述がある。

 最後に年少者の場合を記しておこう。心理的にはこれがもっとも興味深いものであり、シェイクスピアから陳凱歌チエンカイクまでが好んで主題としたものである。年少者はまず自分が仰ぎ見る年長者に接近する。彼の書物を蒐集し、文体を模倣し、彼についていかなる瑣末な情報でも入手しようとする。だがひとたび世に出る機会が与えられるや、功名心に煽られるあまり一番首を獲ろうと思い、その年長者を罵倒して脚光を浴びようという願望を抱く。
 わたしはあるとき、ストーカーめいた年少者に付き纏われたことがあった。その人物はシンポジウムの休み時間にいきなりわたしの前に現われ、自分がわたしの高校の後輩であり愛読者であると告げた。本当かどうかはわからない。次に招待もされないのにわたしのホームパーティに押しかけ、一人でフランスの哲学者たちの名前を連呼しては周囲の顰蹙を買った。わたしにはこの人物の意図がわからなかった。この人物はほどなくして態度を豹変した。彼は雑誌に発表場所が得られるやいなや、私の過去の書物を何ら価値のないものとして裁断し、わたしに対して罵倒のかぎりを尽くした。そこには功名心とともに、わたしに憧れていた時分のかつての自分を拭い去っておきたいという強い身振りが見受けられた。何という少年犯罪よと、わたしは呆れ返った。もしわたしが彼に対し鷹揚な庇護者のように振舞っていたとしたら、彼の期待に応じたことになり、あるいは異なった結果となったのかもしれない。だがわたしは自分が抱えている主題に忙しく、単に見ず知らずのこの青年の相手などする時間がなかっただけの話である。結局この人物は凡庸な小説家に落ち着いた。
四方田犬彦「世代について」(『人、中年に到る』白水社2010年10月刊、111-112頁)❞
人、中年に到る

四方田氏の自宅で催された「新年会」/「ホームパーティ」で、高校(教駒/筑駒)の後輩である青年が「デリダだとか、ドゥルーズだとか、誰もここではわからないことを酔っ払って叫んでいる」/「フランスの哲学者たちの名前を連呼」とあるのだから、この人物は東氏と考えて差し支えないであろう。
東氏が四方田氏の書物を無価値と裁断し罵倒した文章が何かは不明であるけれど、先に引用した文芸時評もその種の文章の一つと考えて大過ないと思われる。「ホームパーティに押しかけ」という記述は先に記したとおり不正確である。
上記引用文では東氏が四方田氏に「憧れていた」されるが、東氏は2015年7月17日に、大澤聡のツイートを受けて、次のツイートをしている。

たしかに四方田氏が東氏に「鷹揚」に対していれば、つまり「褒め」ていれば、「異なった結果となった」であろう。
ただし、「凡庸な小説家に落ち着いた」という記述は、『人、中年に到る』刊行の約5ヶ月前に東氏が第23回三島由紀夫賞を『クォンタム・ファミリーズ』で受賞したことを指しているのでもあろうけれど、見当外れではないか。

*1:引用者注:出口裕弘の子女である。