西条靫負について

 大西巨人の小説『神聖喜劇』(光文社文庫)には西条靫負さいじようゆぎえという人物が登場する*1。西条靫負は主人公・東堂太郎のF高校時代における「ただ一人の親友」であり、1919年生まれの東堂太郎よりも「三歳年長の同級生」つまり1916年生まれである。F高校卒業後に京都帝国大学経済学部に進学し、「京大内共産主義者グループ」および「京阪神共産主義者グループ」に属し、1938年夏には九州帝国大学法文学部生であった東堂太郎を含めた九州福岡地方の学生八名を「左翼的」「反戦的」な「研究会」「グループ」として組織した「黒幕的」存在である。東堂太郎はF高校時代に、西条靫負の影響からヴィルヘルム・リープクネヒト著『土地問題論』を読み、西条靫負から借りた「日本資本主義発達史講座」を読む。西条靫負との親交によって東堂太郎はマルクス主義共産主義に能動的・主体的に関心を持つようになるのである。
 この西条靫負の主要なモデルが誰なのかは明らかではないが、部分的なモデルになったであろう人物は大西巨人のインタビューにおける発言から推測することが出来る。
 波潟剛と田代ゆきによるインタビュー「大西巨人氏に聞く」(『大西巨人・走り続ける作家』6-7頁、福岡市文学館、二〇〇八年十一月十五日発行、「二〇〇八年七月二十日 大西巨人氏宅にて」)には以下の証言がある。

大西 ノートの端っこに切れっ端に──原稿用紙でなくて──書いとったんです。それが残っとったのを、これはなかなか面白いなと思って。旧制福岡高校の頃、大石徹という男がいて、ちょっと変わった男でね。浮羽中学(福岡)の開校以来の秀才と言われた男だそうです。一年の時は二番じゃったかな、ところが二年から三年にかけては私とケツを争うようになってしまってね、仲良しでしたがね。その男も文学、それからニーチェ好きでドイツ語なんかもよく出来た男ですが、それがその「走る男」というノートの切れっ端に書いたのを読んで、「とてもこれは良う出来とる」と言うて褒めたことがあってね、それが記憶に残っとる。「作った者と作られた者との群れが、雑然として」という表現がなかなか面白いなどと言うて。
 〔…〕
大西 あの、最近ね、一読者よりという手紙が来て、それに大西は嘘を書いとるんじゃないかとある。横浜事件ってあったでしょ。その浅石晴世あさいしはるよと同級生と書いとるけど、*2浅石は十四回生だ、大西は十三回生だ、浅石は一級下のはずだという。つまり歴史というものはそういうところで性格を変えてくる。浅石というのは十二回入学なんです。ところが呼吸器疾患かで一回休学したんだな。それで私と一緒になった。だから二年になったときは同級生、そしてまた再発して休学した。それで卒業は一年遅れた。そういうことでね。ところがそれを知らん人は活字の上だけで物事を見ると、大西は嘘をついとるということになるんですね。大西は正確というけど嘘をつくんだということを、自分で手柄を立てたように発見者のようにして私を糾明する。本人が無知なんです。〔…〕
田代 浅石晴世とは旧制福高の頃に交友はあったのですか。
大西 いえ、浅石とは同級生ちゅうだけでね、私は個人的な交わりが特にあった訳ではありません。
田代 横浜事件の時は。
大西 あの時は、私は兵隊やから。知ったのは私が出した「精神の氷点」という小説の掲載誌「世界評論」の社長が森田一こもりだかずてる、編集長が青木滋あおきしげるで、両方とも横浜事件の当事者。浅石が留置場の石畳の上で血を吐いて死んどったというのは青木さんから聞いたんだ。私自身は浅石くんとは特に個人的な交友はなかった。


 インタビューではまず大石徹という旧制福岡高校時代の同級生について述べている。
 大石徹は1933年に旧制福岡高校文科甲類入学*3、1936年に卒業*4。同年、九州帝国大学法文学部に入学*5、1939年に卒業*6した人物である。
 インタビューにおける「浮羽中学(福岡)の開校以来の秀才」という証言は『神聖喜劇』第一巻181頁の以下の記述と照応する。

西条靫負は、もと私より一年上級の文科甲類生であった。彼は、いわゆる「秀才型」には縁遠いほうの男であったが、福岡県立D中学において開校以来第一等の俊秀と称せられたのであって、F高校においても(成績表上のよりも、むしろ実地実力上の)頭脳明敏学力卓抜を教師学生間に承認せられていた。

 「二年から三年にかけては私とケツを争うようになってしまってね」という証言は『神聖喜劇』第一巻183頁の以下の記述と照応する。

一学年欠席回数が三十回に達する者は落第させられる(原級に留め置かれる)、と学則は定めていて、この定めは、仮借かしやくなく適用せられ行なわれていた。ところで、西条と私とは、同級生中において欠席多数の両大関であり、飛行隊見学までに、西条は、二十九回欠席していて、私は、二十八回欠席していた。

 「その男も文学、それからニーチェ好きでドイツ語なんかもよく出来た男」という証言は『神聖喜劇』第一巻212-213頁の以下の記述と照応する。

しかし西条の読書範囲がたいそう広いということ、彼がマルクス主義文献以外にもたとえば日本およびイギリス、アメリカ、ドイツの古典文学、ドイツの近世ならびに近代哲学などを相当広く深く読みつつあるということを、私は、同級生たちその他とともに、承知しています。以前彼が校友会雑誌に掲載した『ウイリアム・ブレーク論』、『晩年の梁川星巌やながわせいがんおよび梁川紅蘭やながわこうらんについて』、今度彼が校友会雑誌に発表した『ゲオルク・ビュヒネルとその時代』は、そのことの明白な例証であり得るでしょう。


 インタビューでは次に浅石晴世という旧制福岡高校時代の同級生について述べている。*7
 浅石晴世は1916年2月17日生まれ。1933年に旧制福岡高校文科甲類入学*8、1937年に卒業*9。同年、東京帝国大学文学部国史学科に入学*10、1940年に卒業*11。同年、中央公論社に入社する。中央公論社調査室員であった1943年7月31日横浜事件連座して逮捕され、1944年11月13日横浜拘置所内で喀血による窒息で牢死したとされる人物である。
 インタビューにおける「浅石というのは十二回入学なんです。ところが呼吸器疾患かで一回休学したんだな。それで私と一緒になった。だから二年になったときは同級生」という証言は『神聖喜劇』第一巻181頁の以下の記述と照応する。

西条は、二年第一学期の中途から肺疾のため一年間休学して、翌年私と同級に復学した。

 「浅石が留置場の石畳の上で血を吐いて死んどったというのは青木さんから聞いたんだ。」という証言、すなわち太平洋戦争中の浅石晴世の牢死を戦後になって知ったという証言は『神聖喜劇』第一巻232-233頁の以下の記述と照応する。

西条と私との連絡は、その被検挙事件からのち、まったく跡絶とだえたのであった。同年初冬に京阪神共産主義集団の一人として逮捕せられた西条が敗戦の前前年に(兄真人とおなじく)牢死ろうしした、ということを、私は、ようやく敗戦の翌年に知り得たのである。

 西条靫負と浅石晴世はともに1916年生まれ。西条靫負は1939年に逮捕され1943年に牢死するが、浅石晴世は1943年に逮捕され1944年に牢死するのである。
 以上の推測が正しいとすれば、西条靫負のモデルには福岡高校時代の同期生である大石徹と浅石晴世が含まれていると見做せそうである。

*1:新日本文学』連載時は西条数馬。1968年刊行のカッパ・ノベルス版『神聖喜劇』「第一部 混沌の章(上)」以降は西条靫負。

*2:2007年刊行『地獄篇三部作』の「この小説(『地獄篇三部作』)の、やや長い「前書き」(文中敬称略)」における「またちなみに、同誌戦前戦中編集部員として同事件に座し・未決拘留中に獄死した(時の当局から不当にも虐殺せられた)浅石晴世あさいしはるよは、旧制福岡高等学校文科甲類における私の同級生である。」という記述を指すであろう。

*3:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958378/7

*4:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959288/7

*5:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959293/6

*6:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960191/14

*7:この証言には色々と不可解な個所がある。大西巨人は自らを旧制福岡高校の十三回生(1934年入学、1937年卒業)であるとしている。浅石晴世は十二回生であり、二回休学して十四回生として卒業したとしている。しかるに、このインタビューで大西巨人は西山節蔵と一緒に旧制福岡中学校から旧制福岡高校に進学したと証言し、西山節蔵については「福高12回文丙」という注記がなされている。官報第1906号(1933年5月12日)の「福岡高等学校ニ於テ去月十日ヨリ〔…〕入学ヲ許可セル者ノ氏名」および官報第2808号(1936年5月15日)の「福岡高等学校ニ於テ本年三月三十一日高等科ヲ〔…〕卒業セシ者ノ氏名」には大西巨人の名があり、大西巨人は間違いなく旧制福岡高校十二回生(1933年入学、1936年卒業)なのである。そもそも、浅石晴世が旧制福岡高校に十二回生として1933年に入学し、十四回生として1938年に卒業したとすれば、大学入学は1938年であり大学卒業は1941年ということになってしまう。浅石晴世は1940年に大学を卒業して中央公論社に入社しているのであるから、整合性が取れないのである。浅石晴世は旧制福岡高校大西巨人と同じく1933年に十二回生として入学しており、卒業は1937年3月であるから十三回生として卒業したということである。大西巨人は浅石晴世が二度の休学で卒業が通常より二年遅れたと証言しているが、実際には通常より一年遅れて卒業したのである。

*8:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958378/7

*9:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959581/11

*10:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959578/10

*11:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960503/8