四方田犬彦『先生とわたし』

先生とわたし

先生とわたし

四方田犬彦『先生とわたし』読了。
加藤典洋朝日新聞文芸時評)や鈴木晶(『論座』での書評)は著者が偉そうだと評しているが、それほどでもないのじゃないか。中々バランスの良い記述と思えるが。この書物に頻出する人物として由良君美門下である高山宏がいるが、その高山の本書に対する書評紀伊國屋書店の書評空間で読める。


「君美の母方の曾祖父吉田賢輔は福沢諭吉の盟友として日本の英学の設立に功績のあった人物であり」(P54)、「福沢が1868年、すなわち慶応4年に慶応義塾を立ち上げるにあたって、盟友として活躍した人物」(P96)であるらしく、「由良君美には、自分が吉田賢輔以来の日本の英学を継承しているという、確固とした決意と自負があった」(P56)らしいのである。ただ「賢輔が1893年に逝去すると、遺された妻たきは吉田家の存続のため、婿養子を迎える必要に迫られた。彼女は夫の弟の四女シンを養女とし、常陸国河内郡の農家町田家の彌平をその婿として迎えた。彌平は1869年に生まれ、(略)30歳で吉田家に入ると、まもなく家督を継いだ。4年後にシンがわずか23歳で没すると、彌平は京都の士族関口家より、志づゑを後妻として迎えた」(P98)。彌平が吉田家の家督を継いだのは1899年から1900年頃。シンが亡くなるのが1903年から1904年頃。君美の母清子(日本女子大附属高等女学校時代の友人に円地文子がいたらしい)は賢輔の三女で1905年生まれ。つまり清子はシンではなく志づゑの娘の可能性が高いのではないだろうか。だとしたら君美と賢輔の間に血縁関係はないということになる。尤も「まもなく」がどれ程の期間を指しているか定かではないので、この限りではないのだが。以下は1990年8月10日朝刊の記事。

由良君美氏死去

 由良 君美氏(ゆら・きみよし=東大名誉教授、東洋英和女学院大教授・英文学)9日午前7時、呼吸不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去、61歳。故人の遺志により、葬儀・告別式は行わない。喪主は妻淑子(としこ)さん。自宅は武蔵野市吉祥寺南町2ノ23ノ11。


本書には伝説的在日朝鮮人編集者の久保覚の業績について紙数が割かれている。なお坪内祐三『雑読系』の「池袋のジュンク堂で発見した一組の限定本」でも久保覚について詳しく紹介している。以下は1998年9月10日朝刊の記事。

久保覚氏死去

 久保 覚氏(くぼ・さとる=編集者、朝鮮芸能文化史研究家)9日午前3時40分、急性心筋こうそくのため東京都三鷹市の病院で死去、61歳。葬儀・告別式は13日午前9時から東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場で。喪主はパートナーの小松厚子(こまつ・あつこ)さん。自宅は杉並区上荻2の3の7。
 84年から87年まで「新日本文学」編集長を務めた。