古くさいぞ私は

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「一冊の本『精神現象学』」(P40〜43、初出『一冊の本』98年5月号)は、『シブい本』所収の「精神の現象学序論」(P203〜205、初出『Ronza』96・2)と内容が微妙に似た文章である、しかし違う文章だ。さすがは「原稿の二重売りをしない主義」の坪内先生だ。
どう似ており、どう違うのか。両文とも、いつか読み通したいが読了出来ていない本として、ヘーゲルの『精神現象学』を挙げるのである。そして読みたいと思ったきっかけが、「精神の現象学序論」(「精神の現象学序論」はヘーゲル精神の現象学序論』の書評)では「ギリシャ悲劇『アンティゴネー』について書かれたジョージ・スタイナーのパンフレット」であるのに対して、「一冊の本『精神現象学』」ではスタイナーの「『アンティゴネーズ』という大著」になっている。つまりここで坪内先生は、契機としての「スタイナーのパンフレット」を忘却し、個人史の修正を図っちゃったのか、まあ芸ということか。

次に両文ともに、「『精神現象学』は『アンティゴネー』の哲学的翻案である」というスタイナーの教えに促され、「河出書房新社の「世界の大思想」シリーズに入っていた樫山欽四郎訳の『精神現象学』を手に」するが、「まったく歯が立た」なかったと続く。そして最後に「精神の現象学序論」では、「『精神現象学』にふたたび向かう入門書として」『精神の現象学序論』を繙いてみるのだが、「『精神現象学』よりさらに「ハード」だった」という感想を記す。それに対して「一冊の本『精神現象学』」では「どうにか理解の手がかりをつかもうと」して、「『初期神学論集』を手に」したところ、「事実、これはけっこうわかりやすかった」という結果になるのである。ここでは結論が真逆の別ネタを披露したってことか。
担当編集者は中川六平。ブックデザインと本文イラストは南伸坊


坪内祐三『文学を探せ』所収の「インターネット書評誌の私物化を「ぶっ叩く」」に繋がるヤスケンの書評は、『古くさいぞ私は』を貶下してたんだな。

何のために読むのかとの「テーマ」が、見えてこない
安原顯
2000/07/09 17:17:00

著者も「あとがき」で断っているように、この書名、荒川洋治詩集『あたらしいぞわたしは』から借りたものだ。内容は、本や古本屋を巡る雑文(93年〜99年)を纏めたものである。著者は知人であり、本書にはぼくの名もチラリと出てくるのでぶっ叩きにくいが、これは駄本だ。ならばなぜ取り上げるのか。著者は週刊誌、月刊誌の人気者だからだ。なぜ人気者なのか。一見、若いのに(若くはない。今年42歳だ!)、昔の著者や本についてよく知っていると馬鹿な編集者が感心、珍重がられ起用されるからである。しかし、読者よ、騙されてはいけない。この程度の浅薄な知識で「古い本や著者のことをよく知っている」とは言えないからだ。しかも著者本人まで、知ってるつもりになって脂下がっていることにも呆れる。こうしたインチキな若造を甘やかすマスコミ、ミニコミもどうかしている。また著者は、本の「内容」にはさほど関心がなく、「物」としての本、「古書店」を巡る雰囲気が好きなのだ。ぼくに言わせれば「真の本好き」とは到底言い難い。さらに著者は、本好き、古い本に詳しいのは「偉い」かのような錯覚に陥っている節がある。このフィーリングにも付いていけない。「本好き」なんてものは所詮は道楽であって、決して人に自慢できるようなものではないからだ。坪内祐三は、古い本なら何でもいいとのスタンスで読み漁っているようだが、何のために読むのかとの「テーマ」が、まったく見えてこない。著者はこれでハッピーなんだろうか。何かに淫している人間の持つ愉悦感のようなものが感じられないのだ。それからもう一つ、彼は30代の頃から「本に関する雑文」を書き始めたと記憶するが、この腐り切った五流の後進国日本についての批判がまったくないこと、これも気に入らない。少なくともぼくにとっての「読書」とは、引退した爺婆の暇潰しとは違う。世界や社会の仕組みを知り、人間とは何か。生きる意味を自問、時には権力の巨悪を教えられ、怒りまくりもする行為だからだ。あるいは現代作家の作品を読み、感動したり怒ったりしながら「小説」とは「芸術」とは何かを考えるヒントにもするものだ。坪内祐三の書くものには、そうしたことの欠けらも感じられない。駄本と決めつける所以である。

ヤスケンの私怨オソルベシ。