『en-taxi』VOL.22

福田和也柄谷行人への言及

「with th memphis blues again」から。

小林秀雄は、時務については語らなかった。
新体制を励まさなかったが、批判しもしなかった。
一国民として、義務を果たすのみという立場をとりつづけた。
かつて、柄谷行人は、この言葉を、最も強烈なアジテーションとして批判したが、そうなのだろうか。
アジテーションであっても、あの喧噪のなかで口を閉ざしつづけるには、勇気以上の気合が必要だったのではないか。

柄谷の「「反核アピールについて」再論」における戦時中の小林への評価に対する批判は、「柄谷行人氏と日本の批評」で既に詳しく為されている。

柄谷氏は、小林が「戦時中文学者としてでなく『一兵卒として闘う』と書いた」事に就いて「どんな宣伝的な言論よりも強力にアジっ」ている「最も性悪なイデオローグ」を見出している。
柄谷氏は小林が筆を棄てると述べた事を、「自らは言論ではないかのように語る言論のイデオロギー的機能」において糾弾したのだ。
たが実際には、小林は「強力にアジっ」たのではなく、単純に自らの抱負を述べたに過ぎない。「他のうさんくさいイデオローグを拒否しながら、小林秀雄だけを信頼して戦場に出ていった青年が数多く」いたのは、単純に小林が「一兵卒として闘う」だろうと「信頼」したからではないか。


小林秀雄の思い出I 石原慎太郎氏インタビュー」での発言。

福田 江藤さんは、もちろんオフレコの場でですけど、若き小林秀雄というのは要するに柄谷みたいなやつなんだよと。
石原 柄谷?
福田 柄谷行人
石原 そうかな。柄谷行人なんてそんなに魅力ねえぞ。
福田 要するに、世間的なことをあまり気にしないで、傍若無人という意味なんでしょうけど。
石原 柄谷は今、アメリカに行っちゃったんでしょう。
福田 もう帰ってきました。アメリカへ行って禁煙しちゃってから、あまり元気がない。
石原 小林さんは柄谷行人とまったく違うだろう。その質量がさ。
福田 小林秀雄は相変わらず本は売れているのですよね。そこがすごい。

江藤淳による、若き小林は柄谷みたいなやつだった、という秘蔵エピソードを披露したものの、石原の賛同を得られず、機嫌を損ねてしまい、「小林秀雄は相変わらず本は売れているのですよね。そこがすごい。」と慌てて話題を変えた(ように見える)福田。


「◆坂本忠雄プレゼンツ「文学の器」最終回◆昭和から平成への文学の変位」での発言。

福田 江藤さんは、若い頃の小林秀雄柄谷行人みたいなヤツだったとおっしゃっていました。そのニュアンスは、ロジカルなんだけれど、礼儀知らずで、思い込みが激しくてということでしょう。江藤さんのお宅で柄谷さんは酔ってカラオケを歌っていたわけでしょう。そういう感じの、天衣無縫なんだけれど、要するに市民生活については問題があるという。

坂本 ・・・福田さんは中上健次を好きだったと書いていますね。
福田 いや、好きではないですよ。
坪内 しかし、中上健次を神話化している連中より、福田さんの方がちゃんと中上健次を文学的に理解していますよ。
福田 ただ、中上の本が一冊もなくても、私は別に困りません。中上健次という人がいなかったとしても、一mmも関係ないと思います。同業者ということもありますが、私にとっては柄谷行人の方がよほど大きいですよ。

江藤絡みの同じエピソードを雑誌内で二度目の披露。
福田は中上健次が「好きではない」と言うが、『現代文学』所収の「天は仰がず 小説家・中上健次」にはこうある。

私が中上健次を愛したのは、中上が肩肘を張っていたからだ。

「若衆」向けの言い回しで書いてくれる中上は好きだった。

凡庸さに込められた、やや無理な力において、中上を愛していた。

私は中上健次が好きだった。彼の書く物の、虚勢を張っている者独特の柔らかさが好きだった。女とまともにつきあうことも、きちんと働くこともできない男が、ただ大きいこと強いことを書き、書くことでも虚勢を張りきった悲しさと惨めさの中には、やはり信じられる、宝石のような真実がほの見えていたと思う。「満腹ガキ」の一人として。

福田は「中上健次を好きだったと」明らかに「書いてい」るのである。
「天衣無縫なんだけれど、要するに市民生活については問題がある」柄谷と言えば、講談社文芸文庫版『意味という病』での曽根博義による「作家案内」に記されたエピソードが想起される。

インチキ翻訳会社を創った。会社といっても社員は私一人で、注文が入ると東大のアルバイト委員会に行って学生の誰かを紹介してもらうという仕組だった。・・・"創業"案内の葉書一本でさまざまな翻訳の注文が殺到した。そのなかに政府の息のかかったある経済研究所が出している英文雑誌の仕事があった。アルバイト委員会に仕事の内容を話して、適当な学生を紹介してほしいというと、それならといって紹介してくれたのが柄谷善男、つまり柄谷さんだった。・・・依頼した「日本の所得分布」という三十枚の厄介な論文の翻訳は、経済をやった柄谷さんでなければ出来ない仕事だった。・・・受け取った・・・その原稿も日本人にはなかなか書けない英語らしい英語になっていた。・・・自信を持って研究所に届けた。・・・そこまではよかった。しかしこの話にはあとがある。柄谷さんの翻訳のおかげで、大口の固定得意先になるはずだった経済研究所から、その後、注文が来なくなったのだ。・・・「日本の所得分布」という論文・・・は東大のある教授が書いたものだった。その教授に元原稿と翻訳原稿のチェックを頼んだところ、教授がかんかんになって怒鳴り込んで来たという。元原稿のところどころに「バカ」とか何とか原稿そのものを罵倒する落書きがあったというのだ。もともと出来の悪い難解な論文の、とくに論理の通らない部分に落書きがあったので、教授はよけいに頭に来たのだったらしい。柄谷さんにしてみれば、その通らない筋を何とか通して英語に直さなければならないのだから、東大教授の頭の悪さが頭に来たのだったろう。

新津武昭氏の勘違い

小林秀雄の思い出II 「きよ田」新津武昭氏インタビュー」での新津氏の発言。

僕が十九歳のときかな。永井龍男先生がお連れくださったんだと思います。どなたかの共通の友人のお葬式の帰りだったんですね。それで初めて、小林先生がお見えになった。

――呑むのは日本酒だけでしたか。
そうでした。僕は二十何年お付き合いして、ビールを一回飲んだだけです。

――最後にお店に来たのは、いつぐらいの時期でしたか。
小林先生は八十歳で亡くなった。寿司は病院に届けたのが最後だったですけど、店に来たのは亡くなる二年ぐらい前じゃないですかね。

去年の十二月に六十一歳になったんです。

新津氏は61歳である。『ひかない魚―消えてしまった「きよ田」の鮨』の著者略歴には「1946年12月12日長野県上諏訪に生まれる。1963年頃上京。修業の後、1969年銀座の鮨店「きよ田」の店主となる」とある。小林秀雄が初めて来店したのが、新津氏「19歳のとき」であるから、1965年か1966年だ。入院中の小林秀雄に寿司を届けたのが、仮に小林が亡くなる1983年であったとして、新津氏が小林に出会ってから、最長で18年の付き合いということになろう。
そうであるなら「僕は二十何年お付き合いして」という発言には錯誤がある。