『皆殺し文芸批評』

皆殺し文芸批評―かくも厳かな文壇バトル・ロイヤル

はじめに(小社編集部)


第1章◎20世紀の批評を考える 柄谷行人×絓秀実×福田和也*1
ヴァレリー『建築家ユーバリノス』/ハイデガーヘルダーリンの詩の解明』/ベンヤミンボードレール』/バシュラール『火の精神分析』/サルトル存在と無』/ヴィトゲンシュタイン哲学探究』/バタイユ『エロティシズム』/アドルノ『文学ノート』/ヤコブソン『言語学詩学』/フーコー『言葉と物』/デリダエクリチュールと差異』/ド・マン『盲目と明察』/ジェイムソン『言語の牢獄』/ドゥルーズ=ガタリカフカ〈マイナー文学のために〉』


第2章◎小説の運命Ⅰ──第三の新人から開高・石原・大江まで── 絓秀実×富岡幸一郎×福田和也×大杉重男*2
島尾敏雄『夢の中での日常』『死の棘』/安岡章太郎『ガラスの靴』『流離譚』/吉行淳之介『驟雨』『夕暮まで』/遠藤周作『沈黙』『スキャンダル』小島信夫抱擁家族』『美濃』/庄野潤三静物』/丸谷才一『たった一人の反乱』/三浦哲郎『白夜を旅する人々』/石原慎太郎『わが人生の時の時』/開高健『輝ける闇』/大江健三郎『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『燃えあがる緑の木』/河野多惠子『みいら採り猟奇譚』/大庭みな子『寂兮寥兮かたちもなく


第3章◎小説の運命Ⅱ──内向の世代から現在まで── 絓秀実×清水良典×富岡幸一郎×福田和也*3
加賀乙彦『宣告』/黒井千次『群棲』/後藤明生『挟み撃ち』/阿部昭『司令の休暇』『緑の年の日記』/富岡多恵子芻狗すうく』『波うつ土地』/李恢成『百年の旅人たち』/日野啓三夢の島』/古井由吉『杳子』『仮往生伝試文』/筒井康隆脱走と追跡のサンバ』/中上健次『岬』『奇蹟』/青野聰『カタリ鴉』/津島佑子『寵児』『風よ、空駆ける風よ』/村上龍『テニスボーイの憂鬱』/村上春樹羊をめぐる冒険』『ねじまき鳥クロニクル』/高橋源一郎優雅で感傷的な日本野球』/島田雅彦『彼岸先生』

  • 「父権」なき時代の文学
  • 『宣告』の倫理の座標
  • 『群棲』と疎外論
  • 『挟み撃ち』・パロディと制度
  • 『司令の休暇』のメタ・テクスト性
  • 夢の島』における現在
  • 『仮往生伝試文』の新しい「文語」
  • 『波うつ土地』が切り拓いたフェミニズム
  • 『百年の旅人たち』の祈り
  • 脱走と追跡のサンバ』の現実と虚構
  • 千年の愉楽』『奇蹟』と路地の問題
  • 『カタリ鴉』のマジック・リアリズム
  • 『風よ、空駆ける風よ』の「呼びかけ」的言葉
  • 『テニスボーイの憂鬱』と「大衆」
  • ねじまき鳥クロニクル』の存在論
  • 『さようなら、ギャングたち』のコンセプト
  • 『彼岸先生』と誠実さの問題
  • 「小説の運命」を論じて


第4章◎新鋭作家9人の可能性 島弘之×富岡幸一郎×福田和也×大杉重男*4
久間十義『ヤポニカ・タペストリー』、車谷長吉鹽壼しおつぼさじ』、三浦俊彦『この部屋に友だちはいますか?』/奥泉光『バナールな現象』/佐伯一麦『木の一族』/笙野頼子『二百回忌』/室井光広『おどるでく』/阿部和重アメリカの夜』/柳美里石に泳ぐ魚


第5章◎日本文学の行方 絓秀実×富岡幸一郎×福田和也×東浩紀*5
島田雅彦『内乱の予感』/奥泉光プラトン学園』/村上龍五分後の世界』/矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』/松浦理英子『親指Pの修業時代』/金井美恵子『柔らかい土をふんで、』/保坂和志『季節の記憶』/藤沢周サイゴン・ビックアップ』/辻仁成『白仏』/町田康夫婦茶碗』/阿部和重インディヴィジュアル・プロジェクション


あとがき(福田和也

柄谷行人・絓秀実・福田和也三者での鼎談は、2002年におこなわれた「共同討議 アナーキズムと右翼」(『批評空間』Ⅲ-4)もある。絓秀実と東浩紀が同席した座談会は本書第5章「日本文学の行方」以外に知らない。東浩紀福田和也との対談「文芸批評の呪い──小林秀雄江藤淳柄谷行人の先に道は存在するのか」(『Voice』1997年10月号)において述べている絓秀実への評価は以下のようであった。

 福田 批評に話を移すと、すがさんはどうですか。ぼくは絓秀実は不当に低く評価されてると思うんですけど。
  そうですね、それなりに尊敬をしている、という感じです。
 福田 絓秀実の近代文学史についての仕事は、誰も彼の名前に言及しないけれど、現在の理論的な枠組みは彼がつくったものですよね。だからもう少し皆さん絓さんを尊敬してよ、というところがあるんだけどな。『小説的強度』なんて、あんなに苦労してあそこまでやっておきながら、いまやほとんど誰も参照しないでしょ。
  ぼくは読みますよ。読むけど、やっぱりサービスにちょっと欠けるなとは思います。面白いと思いますけど、「ぼくは」というのがつねにつきますね。失礼なたとえかもしれませんが、たとえば『エヴァンゲリオン』以外にも、ぼくが好きなアニメっていっぱいあるんですよ。それは文脈がわかるからなんです。「えっ、こういう原作で、これでこういうことをやるんだ」とか。つまりある領域のファンになれば、そのなかで細かいよさというのはいっぱい見えてくる。たとえばぼくはデリダの研究をやっていますから、フランス現代思想にだって面白い本はいっぱいあるわけですよ。でもぼくは、それをいいと宣伝する気にはならないし、ぼく自身はそういうものを書きたくない。

*1:「新潮」1996年5月号、「非常に簡単にいうと、例えばこのように西洋の哲学者や批評家をあげつらっているとき、われわれは向こうを見ているが、向こうはこちらを見ていないという事実に対して、平気な人間が「学者」であり、その非対称性を意識しているのが「批評家」だということです。それは別の見方でいえば、自分が考えていることと生きている現場との隔たりを意識しているか否かということです。学者でもそのことを考えてしまう人なら、「批評家」であるといってよいと思います」(柄谷行人

*2:「新潮」1995年8月号

*3:「新潮」1995年11月号

*4:「新潮」1995年2月号

*5:書き下ろし(1998年3月5日座談会)