講談社文芸文庫版『五里霧』の「著者から読者へ」

大西巨人の短篇小説集『五里霧』(講談社文芸文庫、二〇〇五年)の跋文「牛歩の辯」に以下の記述がある。

ある作者が、報道メディアのインタヴューアーから「あなたの代表作は?」と聞かれて、「『桜の園』あたりでしょう。」と答え得たら、その作者は、実に幸福であるにちがいない、というふうのエッセイが、太宰治にある、と私は記憶する。私が、「あなたの短篇小説の代表作は?」と聞かれて、「『可愛い女』『犬を連れた奥さん』あたりでしょう。」と答え得たら、その私は、実に幸福であるにちがいない。とはいえ、めったに、事は、そうは行かない。

大西巨人が一九八〇年に『西日本新聞』紙上で三カ月間に渡り、五〇回連載した試論『遼東の豕』第三四回「伐木丁丁」には以下の記述がある。

太宰治は、一九三九年の随想『正直ノオト』に、「その先輩のお方も、なるほど、人から貴下の代表作は? と聞かれたとき、さぁ、『桜の園』、『三人姉妹』なんか、どうでせう、とつつましく答へることができるやうだったら、いいねぇ、としんみり答へたことでした。」と書いている。
私は、「その先輩のお方」に心から同意する。