大西巨人✕金靜美

絓秀実+金靜美「日本イデオロギー批判 部落解放運動のなかの民族主義*1

──〔…〕それともう一つ、キㇺさんの野間宏批判の前提には、『真空地帯』批判がありましたね。軍隊を「真空地帯」として捉えることへの批判ですが、これは大西巨人が『真空地帯』を「俗情との結託」として批判したモチーフとおなじなのです。大西さんはその批判から、部落問題を重要なモチーフとする『神聖喜劇』を書いたのでした。『水平運動史研究』を読んで、是非、大西さんにも読んでもらいたいと思いました。


大西巨人インタビュー 日本イメージ批判③*2

──戦後の問題を現在の問題としてつきつけたものに、昨年評判になったキム・チョンミさんの『水平運動史研究』(現代企画室)があります。この本についてのお考えを。

 あの本は資料もよく押さえてあって、大筋はたいそうよい本だと思います。ただ、『真空地帯』に対する批判にはいささか無理がある。それは大阪の市役所でいわゆる「同和対策」みたいなセクションにいた野間宏の立場をとらえて、そこからだけ作品を批判するのには若干無理があろうということです。当時の時代状況の制約の中で動いていた人間というものを見るとき、多かれ少なかれ無理があるように思います、むろん労作ではありますが。
 少し話は飛躍しますが、中野重治の有名な詩に『雨の降る品川駅』がありますね。これについていろいろな論議があって、被差別者(この場合は朝鮮民族)が日本プロレタリアートの後ろ楯、前楯になっているという話があります。しかし、それはちがう。すべての被差別者はそういうコンプレックスから抜け出さなくてはならない。中野が晩年の妙に「円熟」した──すなわち心衰えた── 一時期に、往年の自分の仕事をふり返って「物わかりのいいおじさん」のようないかがわしいことを言ったりしたので、なおさら事がめんどうになったのです。
 あの詩は革命的プロレタリアートの国際連帯をうたったのだ。それを、朝鮮人が日本プロレタリアートの後ろ楯、前楯になっているという、そういう読み方から抜け出さなければ、被差別者が差別者に対する本当の戦いはできない。
 そしてこういう詩を書いたのが、帝国主義者ではない中野重治です。このケースに似たことをキム・チョンミさんの本にもいくらか感じます。ラジカルさを抑えるという意味ではなく、時代や人間に対してもっと「おおらかな」形で書かれればもっと良かったと思います。


金靜美「補章 日本ナショナリスト批判/(三)『水平運動史研究──民族差別批判──』以後/四、批判の主体のありかた/2、「差別者に対する本当の戦い」についての断言の根拠?*3

 (2)
 大西巨人は、『図書新聞』一九九五年四月二九日号で、『水平運動史研究』について語るさい、中野の「雨の降る品川駅」にふれ、

     「これについていろいろな論議があって、被差別者(この場合は朝鮮民族)が日本プロレタリアートの後ろ盾、前盾になっているという話があります。しかし、それはちがう。すべての被差別者はそういうコンプレックスから抜け出さなくてはならない」、  「あの詩は革命的プロレタリアートの国際的連帯をうたったのだ。それを、朝鮮人が日本プロレタリアートの後ろ盾、前盾になっているという、そういう読み方から抜け出さなければ、被差別者が差別者に対する本当の戦いはできない。  そしてこういう詩を書いたのが、帝国主義者ではない中野重治です。このケースに似たことをキム・チョンミさんの本にもいくらか感じます。ラジカルさを抑えるという意味ではなく、時代や人間に対してもっと「おおらかな」形で書かれればもっと良かったと思います」

といっている。
 大西は、「朝鮮人が日本プロレタリアートの後ろ盾、前盾になっているという、そういう読み方から抜け出さなければ・・・・・・」といっているが、「雨の降る品川駅」には、そのように書いてあるではないか。「そういう読み方」のほかにどういう「読み方」ができるというのか。『改造』版とナップ出版部版の「雨の降る品川駅」で「前だて後だて」と書かれていた箇所は、ナウカ社版以後は「後だて前だて」とされ、一九七五年ころから「うしろ盾まえ盾」と変えられたが、本質的な改変ではない。
 ここで、大西がいっている「このケースに似たこと」というのが、どんなことなのかは、わからない。「時代や人間に対してもっと・・・・・・」というのも、あいまいすぎるいいかたである。このばあいの人間というのは、日本人ということであろうか。
 大西が、もし、『無産者』版で補った『改造』版の「雨の降る品川駅」にかかわって「そういう読み方から抜け出さなければ、被差別者が差別者に対する本当の戦いはできない」といったのなら、つぎの問いに、こたえてもらいたい。

    問い① 日本の〝革命的プロレタリア〟は、自分では、「彼の×のど元 そこに刃×を突きつけ/全身にとびちる血に/温もりある復×の歓喜のなかに泣き笑」わないのか。    中野重治が「彼の身辺に近づき/彼の面前にあらはれ」という文句を発表する半年あまりまえ、一九二八年五月一四日に、趙明河が台湾で、クニヨシの身辺に近づき、刃物を投げつけた。逮捕された趙明河は、一〇月一〇日に、二三歳で処刑された(『水平運動史研究』九五〜九六、九九〜一〇〇頁)。大西のいう日本の「革命的プロレタリアート」は、趙明河の処刑に抗議したか! 一九三二年一月八日、李奉昌は、「神戸名古屋を経て 東京に入り込み」、ヒロヒトに投弾したが失敗した。李奉昌は、趙明河が殺されてから四年後の一〇月一〇日に、東京で、三二歳で処刑された。大西のいう日本の「革命的プロレタリアート」は、李奉昌の処刑に抗議したか! この年のヒロヒトの誕生日(「天長節」)に上海でたたかった尹奉吉は、李奉昌が殺された二か月後の一二月一九日に、金沢で、二四歳で処刑された。大西のいう日本の「革命的プロレタリアート」は、尹奉吉の処刑に抗議したか!

 大西が、『改造』版の「雨の降る品川駅」にかかわってのみ「そういう読み方から抜け出さなければ・・・・・・」といったのなら、つぎの問いに、こたえてもらいたい。

    問い② 大西のいう日本の「革命的プロレタリアート」は、朝鮮に「行って」、「あの堅い 厚い なめらかな氷」を叩き割るたたかいを組織したことがあったか。

 「雨の降る品川駅」が日本語と朝鮮語で発表された時期は、朝鮮の元山で、大規模のゼネストがたたかわれているさ中であった。「雨の降る品川駅」がのっている『無産者』一九二九年五月号には、李北満の「元山××的労働者의蹶起」が掲載されていた。


 (3)
 「あの詩は革命的プロレタリアートの・・・・・・」というとき、大西が、「あの詩」のテキストを、一九二九年に発表されたテキストとしているのか、改作テキストとしているのか、あるいは全テキストとしているのかは、はっきりしない。「雨の降る品川駅」の内容は、改作以前と以後では、ことなっている。
 「辛よ さやうなら/金よ さやうなら」ではじまる「雨の降る品川駅」は、『改造』版テキストの、

     「そして再び/海峡を躍りこえて舞ひ戻れ/神戸 名古屋を経て 東京に入り込み/ヽヽヽヽに近づき/ヽヽヽヽにあらはれ/ヽヽヽヽ/ヽヽ顎を突き上げて保ち/ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ/ヽヽヽヽヽヽヽ/温もりあるヽヽの歓喜のなかに泣き笑へ」

という箇所が、改作テキストでは、

     「復讐の歓喜に泣きわらふ日までさやうなら」(「さやうなら/××の歓喜に泣きわらふ日まで」、あるいは「さようなら/報復の歓喜に泣きわらふ日まで」)

と変えられているが、そのことによって、「あの詩」の状況設定が大きく変わっている。改作では、辛や金らにたいする提言の内容が抽象的になっているだけでなく辛や金らが「復讐(××あるいは報復)の歓喜に泣きわらふ日」まで「再び/海峡を躍り越えて」日本に「舞ひ戻」ることがなく、「さようなら」という状態がその日までつづくようになっており、「復讐(××あるいは報復)」する主体があいまいにされている。
 『改造』版とは別の意味であるが、改作された「雨の降る品川駅」にかんしても、「革命的プロレタリアートの国際的連帯をうたったのだ」ということはできない。〝革命的プロレタリア〟は、「報復(あるいは復讐)の歓喜に泣きわらふ日」をめざしてたたかうのではないし、またその日のくるまで「さようなら」しつづけてもいないだろう。


 また、問題は、改作前後の内容の違いだけにあるのではない。
 「雨の降る品川駅」を一九二九年に発表する意味と、一九三一年にその改作を発表する意味と、一九三五年にさらにそれをすこし変えて発表する意味と、「八・一五」ののちにそれを発表する意味は、それぞれちがう。
 小笠原克は、「雨の降る品川駅」を論じるさい、一九二九年のもの(『改造』版テキストと水野直樹訳の『無産者』版テキスト)について、

     「《被圧迫民族》たる心情の一体化、《叛逆》への結束が火と燃える。《朝鮮》への想望を激しく主体化してきた中野重治によってこそ、「雨の降る品川駅」は、歌われるべくして歌われたのであった」

と、理解しがたいことを書いている(小笠原克「「雨の降る品川駅」をめぐる状況」、『民濤』4号、一九八八年九月、一一七頁)。
 一九三一年に、「日本プロレタリアートの前だて後だて/復讐の歓喜に泣きわらふ日までさやうなら」と書いたあと、中野ほ、転向した。その後では、中野は、「辛」や「金」や「李」や「も一人の李」らにむかって「行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたゝきわれ」と語るモラルを失っていた。にもかかわらず、中野は、このことばを、一九三五年にくりかえした。一九二九年の「さやうなら」と一九三一年の「さやうなら」との違い、そしてその両者の「さやうなら」と一九三五年の「さやうなら」の根本的な違い。そして「八・一五」以後にくりかえし複製された「さようなら」!
 中野は、一九三一年に「復讐の歓喜に泣きわらふ日までさやうなら」として発表しようとし、一九三五年に「さやうなら/××の歓喜に泣きわらふ日まで」として発表した「雨の降る品川駅」の最終部を、一九四七年に「さやうなら/報復の歓喜に泣きわらふ日まで」と変えて発表した。
 一九三五年に、槇村浩は、「人民詩人への戯詩」と題する詩に、つぎのように書きとめていた。

     「列車が雨のふる品川駅につくと/彼は前衛の乗客を見送りながら/大きく息をついて/「さようなら」と言った/中野はいつも「さようなら」と言いたがる」( 岡本正光・山崎小糸・井上泉編『槇村浩全集』平凡堂書店〈取次所〉、一九八四年、一〇六頁)。

 テキストの改変、各テキスト発表の時期の歴史性を無視してはならないというあたりまえのことを前提として、大西巨人に、つぎの大小の質問にできるかぎりこたえてもらいたい。

    問い③ 大西は、「雨の降る品川駅」のどのテキストを読んで、中野がいつの時点で「革命的プロレタリアートの国際的連帯をうたった」というのか。
    問い④ どういう立場で、大西は、「すべての被差別者はそういうコンプレックスから抜け出さなくてはならない」といい、被差別者の「本当の戦い」についてかたっているのか、差別者の「本当の戦い」とはどのような戦いだと大西は考えているのか。「そういうコンプレックス」というあいまいないいかたで、大西は正確にはどんなことをいおうとしたのか。被差別者の「本当の戦い」についてかたる大西は、自分では、どのようにどのような「本当の戦い」をやってきたのか。
    問い⑤ 「雨の降る品川駅」を「革命的プロレタリアートの国際的連帯をうたったのだ」と解釈する大西は、「五勺の酒」をどのように解釈するのか。「天皇個人にたいする人種的同胞感覚」ということばをあやつる日本人インテリの「報復の歓喜に泣きわらふ日」とは、どのような日だと、大西は考えるのか。
    問い⑥ 日本人のいう「革命的プロレタリアートの国際的連帯」の実体はどのようなものであったか。


絓秀実「「公共的」論争のために 『大西巨人文選』(全4巻・みすず書房刊行によせて*4

 近年、『昭和の文人』の江藤淳から『ヒューモアとして唯物論』の柄谷行人にいたる、中野重治の再評価=再定義が盛んに行われている。これらは各々方向が全く異なるとはいえ、共にいわゆる「戦後文学」の解体=構築の試みであることは認められる。しかし同時に、金靜美『故郷の世界史』に見られるように、中野の名高い詩「雨の降る品川駅」での朝鮮人表象を「民族差別」とする批判もまた──必然的に──顕在化している。金靜美の中野重治批判は、大西氏の「雨の降る品川駅」読解への批判も含んでいるのだが、大西氏がその批判にどう答えるかは軽々に推測すべきでないとはいえ、ここで想起されるべきなのは、中野重治への変わらぬ敬愛を隠さない大西氏が、同時に中野の或る種の「弱さ」にも触れ、批判的に論じているということである。


大西巨人コンプレックス脱却の当為  直接具体的には詩篇『雨の降る品川駅』のこと 一般表象的には文芸・文化・人生・社会のこと」*5

一 この小文執筆までの概況
二 こんな文章を公表する者の「資格」について
三 『雨の降る品川駅』の「テキスト」のこと
四 「革命家としての態度の誤り」のこと
五 「原詩」、「現詩」にたいする否定的言説の戯画的な諸類型

大西巨人コンプレックス脱却の当為  直接具体的には詩篇『雨の降る品川駅』のこと 一般表象的には文芸・文化・人生・社会のこと*6

六 「芸術的触角」の問題
七 私の考え(1)
八 私の考え(2)
九 私の考え(3)

十 むすび

*1:『情況』1994年7月号/絓秀実著『「超」言葉狩り宣言』(太田出版)p.199

*2:図書新聞』2244号〔1995年4月29日〕2面

*3:金靜美著『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』(現代企画室)pp.438-443

*4:図書新聞』2313号〔1996年10月12日〕5面

*5:『みすず』1997年3月号pp.15-28

*6:『みすず』1997年4月号pp.60-71