「死ぬまでに絶対読みたい本」


文藝春秋2008年12月号〔p.198〕

『悪霊』(ドストエフスキー新潮文庫
大西巨人(作家)


 「文藝(小説)の境地は、『深淵としての人間』を剔抉して描出することである。」と私は、確信するが、『悪霊』は、その「極致」の希有な達成である。たとえば小作『神聖喜劇』の大前田軍曹ないし小作『天路の奈落』の明石日本人民党西海地方委員と、ニコライ・スタヴローギンないしピョートル・ヴェルホーヴェンスキーとは、芸術上血縁にはかならない。
 私は、外国語が(ロシア語も)不得手なので、読んだのは、主に日本訳。戦前に二回。一回は、日本訳。一回は、イギリス訳(「“The Possessed”」)。戦中・被召集中の一兵卒として、一回(日本訳)。戦後、一回(日本訳)。
  〔注〕ここでの「読む」は、「読み通す」の意であって、「拾い読み」の意ではない(「拾い読み」は、無数回)。

大西巨人のエッセイ「巨匠」(『朝日ジャーナル』1986年3月28日号)中からの下記は上記に照応するが、差違もある。

 私は、これまでに四回ドストエフスキー作『悪霊』を通読した(第一回通読からのち、部分的には何回も読んだ)。一回目(第二次大戦前)は岩波文庫版の邦訳、二回目(第二次大戦中)はモダン・ライブラリー版の英訳、三回目(第二次大戦後)は河出版『全集』の邦訳、四回目(同上)は新潮文庫版の邦訳。

1986年のエッセイでは戦前に一回、戦中に一回、戦後に二回と書かれている。2008年のエッセイでは戦前に二回、戦中に一回、戦後に一回と書かれている。
どちらの記述が正確であろうか。1986年69歳時の記憶力は、2008年92歳時の記憶力よりも明晰であると考えられる。しかし、1986年エッセイでは戦中に隊内で英訳を読んでいるというのは訝しい。2008年エッセイの記述がより正確ではないだろうか。