「福田恆存がぐっと右にいった」理由

武井昭夫が「記録のアクチュアリティを求めて」*1で次の発言をしている。

あるとき、尊敬している人から言われたのですが、福田恆存がぐっと右にいったのには、中野重治さんがある文章のなかで福田恆存を不当に軽くあしらった、それに福田が隠微にしかし強く反発したことが契機になったのではないか、と言われたことがある。難しい問題だなと思いましたけれどね。むろん、これは中野さんがよくなかったというような単純なことではないんですけれど。

武井昭夫の「尊敬している人」とは、おそらく大西巨人である。武井昭夫大西巨人花田清輝とを殊に「尊敬」していたのは斯界周知の事実であるが、最も有力な推定根拠は「大西巨人に聞く 小説と「この人を見よ」」*2における大西巨人の発言である。

 江藤は『昭和の文人』の中に、中野重治天皇にたいする敬愛の情を持っていて、なかなかよろしい、という意味のことを書いていますね。その中野評価は、実は「復讐」なんですよ。普通、人間は、女優なんかは、実際の年齢より若く見られようとするものですが、江藤の場合は逆なのです(笑)。老けて見られたがる。つまり、長老と見られたがる。ところが、自分ではもう大家クラスになったという自惚れ独尊意識がすでに早くも生じたころに、中野から「江藤淳は『ちょっと、せいのび』をする必要があったろうし、またあるだろう」(「プライヴァシーと〈せいのび〉」『四方の眺め』新潮社、一九七〇年所収)と書かれた。中野のその未熟者に教訓するような言い方(剴切な評語)が江藤の頭に怨恨として爾来こびりついていたにちがいない。中野を「天皇敬愛者」に見立てることで、江藤は「復讐」をいたずらに実行したのです。江藤的な意味において中野を「天皇敬愛者」とすることは、中野にたいする最大の否定的評価ですからね。絓君の「中野重治は······『右』の人にも受けがいい」という見方は、江藤に関しては、まるきり藪睨みです。

ここで大西巨人は、中野重治が「プライヴァシーと〈せいのび〉」で江藤淳に対し「教訓」したことが、江藤淳に「怨恨」を抱かせ、江藤淳は『昭和の文人』で中野重治を「「天皇敬愛者」に見立て」ることで、中野重治にひそかに「復讐」したのだと推測している。これは、「福田恆存がぐっと右にいった」理由の推測と酷似しているのである。つまり、〈福田恆存江藤淳〉は中野重治から〈軽くあしらわれる/教訓される〉ことで、〈隠微に反発し/怨恨がこびりつき〉、〈右傾した/復讐した〉、ということである。
大西巨人は『神聖喜劇』の主人公(東堂太郎)に次のように内省させている*3

 この種の(人の心を裏口から透視する類の)鋭敏または過敏な(よく言えば「昆虫の触覚のような」、悪く言えば「掏摸の指先のような」)思考ないし直感のひらめきも、──今日現在のそれはさほどたいしたことではないけれども、──かなりしばしば私に生じた。私は、そういう心的活動が(半面において)われながらあまり愉快ではなかった。
 〔…〕
 「この種の鋭敏または過敏な思考ないし直感のひらめき」が「闇夜に鉄砲」の見当違いに終わって私の「憶測」、「邪推」、「猜疑心の仕業」、「まわり気の所為」と実証せられる、ということを、私は、往往むしろ望みさえもした。だが、悲しいことに、私において、それは、ほとんど常に的中し肯綮に当たるのであった。

ここでの東堂太郎の自己省察は、作者(大西巨人)の自己省察であるといってよく、「(人の心を裏口から透視する類の)鋭敏または過敏な〔…〕思考ないし直感」こそ大西巨人が卓抜な作品を書き得た(小さくない)要因のはずである。
そして、福田恆存江藤淳中野重治の文章に反感を抱いたとする推測は、大西巨人の「(人の心を裏口から透視する類の)鋭敏または過敏な〔…〕思考ないし直感」に基づいてなされているに違いないのである。*4

*1:『創造としての革命 運動族の文化・芸術論』p.267

*2:『批評空間』第Ⅱ期第24号

*3:「第七部 連環の章/第三 喚問(続)/一の1」(光文社文庫版『神聖喜劇』第四巻p.98)

*4:高澤秀次は「大西巨人江藤淳論の珍妙さ」(産経新聞2000年1月29日)というコラムで、『昭和の文人』で江藤淳中野重治に復讐したとする大西巨人の推測を「下司の勘ぐりにすぎない」と退けている。