「大西巨人の傲慢な態度」について

小谷野敦がアマゾンのカスタマーレビューで窪田精『文学運動のなかで 戦後民主主義文学私記』を以下のように評している。

これは重要な証言であり歴史である。大西巨人の傲慢な態度とか、若い連中が深夜中野重治宅を襲撃して相手にされなかった話などもあり、読みごたえもある。
 「大西巨人の傲慢な態度」とは『文学運動のなかで』における以下の記述を主に指しているのであろう(pp.324-325)。
 昼頃、会の本部に出かけて行くと、徹夜をしていま起き出してきたばかりといった感じの大西巨人が、(すでにのべたように、夫婦で会の宿直室に住みこんでいた)よくドテラ姿のままで、そのストーブの前に腰をおろしていた。
 ふだんは書記長も編集長も出てきていない会の本部では、常任書記の大西巨人は、いうならば他の各部の書記たちを「監督」する立場にあった。それで、つぎつぎと出勤してくる書記──勤務者たちの報告をきき、自分の意見をのべ、指示をあたえたりしていた。
 大西巨人の言葉には特徴があった。あれは九州弁の一種なのか? いや、私などの耳には、旧軍隊のそれも陸軍の下士官言葉──といったもののようにきこえた。たとえば、「あれを出しておけと、いうたじゃろうが」「あれは、そう思うとるじゃろうが、考えがまるで間違うとる」「おんどら」「何を、ぬかすか」「こんどきたら、そういうてやれ」・・・・・・これを尻あがりの強いアクセントで、眉間に深いたてじわを寄せ、にこりともしないきびしい顔でいうのである。そばできいていると、こちらが叱られているような気持になった。
 事実、私は、大西巨人が若い書記たちを叱りつけている場面をも、なんども目撃した。外来者の前に立ちはだかるようにして、おなじような言葉を連発しているところへ、行きあわせたことなどもある。
 起きぬけの、量の多い乱れた髪を逆立ちさせたドテラ姿の大西巨人が、うす暗い大部屋の事務所のなかで、ストーブのそばの腰かけにそり返る──といった姿勢で、そんなふうに怒鳴っているところへ行きあわせると、(こちらにも、「気をつけーえッ・・・・・・」と、号令でもかけられそうな感じで)、なんとなく息をのみ、だじたじとなったものである。
 そんなふうに感じていたのは、私だけではないようだった。たとえば私たちの『文学芸術』の同人たちのなかにも、
「このごろは会の本部へ行くと、まるで下士官部屋といった感じだ。いやな気持だね」
 そんなふうにいうものがおおぜいいた。霜多正次や小原元などもよくそれを口にしていた。

窪田精は、新日本文学会から日本共産党系の文学者が離脱して1965年に結成した日本民主主義文学同盟の初代事務局長であり、『文学運動のなかで』は日本民主主義文学同盟の機関誌「『民主文学』に一九七五年三月号から七七年十二月号まで(途中、何度かの休載があった)、計二十八回にわたって連載」され、1978年6月20日に光和堂から刊行されている。つまり、窪田精は宮本顕治に従った文学者であり、宮本顕治と対立し日本共産党から(実質的に)除名された大西巨人とは立場セクトが異なる。『文学運動のなかで』は日本共産党系文学者の立場から戦後文学運動について記録した書物であり、当時の資料に基づく詳細な記述は「重要な証言」であると言える。
大西巨人は1981年のエッセイ「読書日録「いつはりも似つきてぞする」『神聖喜劇』に関する「赤旗」のタワゴト」*1に以下のように記している。

 先日、一知人が、『赤旗』四月十四日号「文化」欄の切り抜きを送ってくれた。『神聖喜劇』にたいする日本(代々木)共産党員二名の「話し合い」が、そこに掲載せられていた。
 二名の戯言たわごとは、過去約二十年間のおりおりに宮本顕治、蔵原惟人、津田孝、窪田精などの似非えせ共産(マルクス)主義者どもが(私について)書き散らしてきた嘘っ八と同様に、「話し合い」者各個における批評的無能ならびに人間的陋劣ろうれつの自家広告である。
 大西巨人はここで『文学運動のなかで』における自らに関する記述を「嘘っ八」に数えているとみなせる。つまり『文学運動のなかで』は「重要な証言」ではあるが眉に唾をつけて読まなければならず、検証なくして「歴史」とまで認めるわけにはいかないのである。

窪田精は『文学運動のなかで』において、新日本文学会を「破壊」した人物としてとりわけ大西巨人武井昭夫によるセクト主義的言動を繰り返し指弾している。「大西巨人武井昭夫のハッタリ」(343)、「大西巨人武井昭夫らによって指導されるこれらの人々は、会内の「既成」文学者たちを片っぱしから批判するという『狙撃兵』という同人雑誌を出す相談まではじめている──という噂があった」(363)、「戦前のプロレタリア文学や戦後の民主主義文学の成果を否定する文学潮流形成に「オルグ」的役割を果していたのは、いうまでもなく、武井昭夫大西巨人であった」(405)、「第八回大会に向かって、武井昭夫大西巨人などを中心とする一部の会員たちの分裂主義的な活動は、いよいよ激しくなった」(410)、「常任幹事会の実権は大西巨人武井昭夫ら少数のグループに完全ににぎられるようになっていた」(450)、「大会は武井昭夫大西巨人などの独壇場ですすめられた」(468)といった具合にである。武井昭夫については以下の記述が目を惹く(p.448)。

 なお、この第九回大会では「地方支部」が完全に廃止され、支部の項が会の規約から抹殺された。
 このときのことで、いまも私の目の奥につよくやきついてはなれないものがある。栃木県から出てきた老齢の江口渙が、支部廃止に反対する意見を節度ある態度でのべたのにたいして、大会運営委員長として私の前方の席にいた武井昭夫が、
「オイボレ、ツラを洗って出なおしてこいッ!」
 と、きくにたえない捨台詞をあびせたときの光景である。
 私は眼を伏せ、しばらく江口渙の顔を正視できないでいた。
 大西巨人の評論については以下のように評している(p.314, p.319, pp.346-347)。
大西巨人はその一、二年ほど前に、『新日本文学』にみじかい評論を二回ほど発表していた。たしか一つは石川達三を、もう一つは平野謙荒正人とを批判したものだった。ディミトロフとか、ジダーノフとか、スースロフというような外国の共産党幹部の言葉をやたらにならべ、それをカガミにして、相手の書いたものを批判している古いスタイルの、いわゆる硬直した文章だった。
 彼らのグループと一体となり、その中心にいた大西巨人が、『新日本文学』に、大仰な文体で毎号のように書きつづけるセクト主義的でラジカルな文芸批評──野間宏の「真空地帯」を批判した「俗情との結託」(五二年十月号)、務台理作の「平和とヒューマニズム」論を批判した「先頭部隊の責任」(五二年十一月号)、徳永直の「静かなる山々」を批判した「意図とその実現の問題」(五二年十二月)などに顔をしかめる会員も多かった。
 それは、それらの作品にたいする正しい批評ではなかったからである。一方的なセクト的な批評で、ようやく強まってきていた民主主義文学運動の統一へと向かう流れをせきとめ、逆流させようとする傾向を、その内容に強くもっていたからだった。同時にその居丈高なののしり調──といった文章そのものにも多くの会員が疑問をなげ、嫌悪感をいだいた。
宮本顕治はそのなかで、基本的には会の「再編・再組織」の必要性を認めながら、その性急な「官僚的事務的」なやり方の不備、欠陥を指摘し、同時に、やはり前にふれた大西巨人などの一連の評論にあらわれている「極視的セクト主義的」傾向を批判したのであった。
 宮本顕治のこの論文については、『新日本文学』誌上で大西巨人などが、その論文の論旨の歪曲のうえに立って居丈高な慢罵──としかいいようのない反論を発表し、宮本顕治はさらにそれを再批判した
 大西巨人の評論に対する上記評言は、おおむね的外れであり、当該評論を一読すれば窪田精のセクト主義的謬見は瞭然とする。
しかし、以下の記述は一考に値する(p.518)。
あれほど新日本文学会の破壊に情熱を燃やした人々の中心にいた武井昭夫らは、その後、どうしたか。さらに数年がたち──一九七〇年三月にひらかれた同会の十四回大会のあと、いわゆる武井グループといわれた武井昭夫大西巨人、檜山久雄、湯地朝雄、小林祥一郎といった人々は、新日本文学会から姿を消した。七一年以後、機関誌『新日本文学』誌上にも、それらの人々はまったく名前をみせなくなっている。新日本文学会破壊という「仕事」が完了したためか。もとから文学運動などとは無縁な人々だったのだ。
 大西巨人武井昭夫は1970年頃に新日本文学会からなぜ退会してしまったのだろうか、日本共産党系グループを追い出し、会のヘゲモニーを掌握したにもかかわらずである。会内の対立グループが消えてしまったことで張り合いがなくなったのだろうか。

*1:週刊読書人』1981年5月11日、『大西巨人文選 3』