雑誌メモ

『SPA!』3月17日号「文壇アウトローズの世相放談「これでいいのだ!」」/「「おくりびと」祭りと、同作をワースト1に選んだ「映画芸術」」

書評は山村修、音楽評は中山康樹、映画評は淀川長治小林信彦双葉十三郎
淀川長治集成』全4巻(芳賀書店)、重政隆文『そして誰も観なくなった』(松本工房)。

福田和也による次の蓮實重彥評が読める。

坪内 映画って、基本的に〝一回性〟のものでしょう。そのとき映画館にいた自分の記憶の中の映画を批評してゆく。そういう評論を映画的に書ける人なんて、蓮實さん以外いなかったんだよ。ほんとに、そのとき観たものを、自分の中のスクリーンに再上映する天才だったね、うん。思想とか関係なくて。
福田 ただ、あれ、やり方自体は、以前からあるフランスのヌーベルクリティークの手法なんですよね。あの人は東大仏文で、ずっとフローベール研究やってるんだけど、博士論文はフロイト式分析で書いてんですよ。ちゃんとパリ大学に留学してカネかけてるし、かっちりした論文で。一方で、紀要(学術雑誌)とかには「『ボヴァリー夫人』における白い手のイメージ」みたいな批評を書いて、その手法を、映画評論に使ってるわけ。で、ワタクシもフローベール研究やってたから、その乗り換えっていうか······いや、いいんだよ、「アカデミックな論文はちゃんと出して、あとは最先端で遊んでる」みたいなのは、学者としては正しいんだけど。ただ、その手法が、そのまま映画に来たんだなあって見えちゃったから、ワタクシは最初からノレなかったんだよ。
坪内 でも、大学院で学者として残っていくためには······。
福田 いや、いいんですよ。だから正しいんです、正しいんだけど。
坪内 大学院生が、学者として大学に残るためには、学問的な論文だけでなく、目立つ成果も必要なんだよね。蓮實さんには、そうせざるを得なかった部分もあるの。修士論文なり何なり、〝学者〟としての覆面をかぶって発表する研究論文と、マスクを脱いで自分のやりたいことを書く文章の両方を。
福田 だから、いいんです。正しいんだよね。でもファンキーではない。

福田は「文学論争は復興しうるか」(『海燕』1996年3月号、『南部の慰安』収録)および「蓮實重彥 どうしてそんなにエライのか?」(『諸君!』1997年2月号)および「文芸(時)評2001 ストレッチ 番外編/セメント・マッチ──「呪文」の効用」(『早稲田文学』2001年1月号、渡部直己との対談)でも蓮實を評している。

 もう少し人が悪いのもいます。こうした政治的な自覚の欠如を、「荒唐無稽」とかいってスリリングに見せる、「知の技法」で楽しい大学生活、みたいな脳たりんを使役している人です。まぁ蓮實重彥氏のことですが。昔ヌーヴェル・クリティクの紹介をしておいて、今は旧態依然とした文壇的時評をやる、といった程度の「政治」ですけれども。要するに若手の時には横紙破り、出世したら清濁あわせ呑むという高級官僚みたいな。

 元はフランス文学者でフローベールが専攻なんだけど、この分野で書いていることはものすごく地味なんだよね。昔、院生の頃友人が蓮實がフランスで提出した博士論文をコピィしてきたんで、ざっと見たことがあるんだけど、おそろしく古風なものだったと云う印象がある。
 なんでそんなものを見たかというと、私も一応フランス文学徒だった時代があって、今をときめく蓮實センセイがどんな論文を書いていたのか興味があったから見せてもらったわけ。そうしたら拍子抜けというか、日本で見せている顔と全然違うなぁ、と若かりし私は思いました。
 日本に帰ってきてから紀要なんかに書いたフローベールについての論文は、博士論文と打って変わった、当時流行の最先端で、今もセンセイの手法の中心になっている、リシャールとか、ルーセといった新批評(ヌーヴェル・クリティク)をそのままパクったような代物で、まぁよく勉強しましたね、という有り様のものだった。

渡部 〔…〕そこで福田さんのご意見を聞きたいんだけれど、松浦寿輝の『折口信夫論』はどう思いますか。
福田 それについていうと、蓮實スクール全般に対する軽蔑みたいなものが出てしまうんだけれど(笑)。
渡部 それはぼくも入っているわけね(笑)。
福田 いや、入れて欲しければ、入れますけど(笑)。ぼくは、松浦さんが大嘗祭の問題を表象として扱ってしまったために、シェイクができなくなってしまったと思っています。世代的な問題もあるんでしょうけれど、ぼくには蓮實さんが導入しようとしたブロンヴェールとかのネタ本全般に対する強い反感があります。好むと好まざるとにかかわらず、ぼくも修士のときにフローベール読みだったので、蓮實さんがいかにみっともない博士論文を書いたか知っているわけですよ(笑)。
渡部 ぼくも、いくつか蓮實さんの紀要の論文に接する機会があって、その一本でたしか『サランボー』を扱ったものがリシャールそっくりに始まるものを読んだことはあるけれど。
福田 それは、いいんですよ。だけど、蓮實さんの博士論文って、マダム・ボヴァリーの精神分析ですよ。
渡部 それは読んでません。
福田 フロイト流のね。そのように大時代的な論文を書いている横で、紀要ではちゃんと「マダム・ボヴァリーの手」とか書いているんです。江藤さんにその話をしたら、感心して「蓮實君はやっぱり立派だ」とかいっていたけれど(笑)。博士論文では硬いところをやって、紀要では遊んでる。先生、逆でしょう、と(笑)。肝心なところでは羽織袴を着てるじゃないか、というような、つまりはなにをやっても遊びでしょう、安全なんでしょうというテマティックな批評に対する反感で出てきたところがあるので、テマティシズムはけっきょくなにもしなかった気がしているんです。

文藝春秋』4月号「人声天語」(71)/「今年のR-1ナンバー1をとったのは実は中川昭一だ」

坪内は朝日・毎日・読売を購読しているとか。