本間久雄と太宰治

坪内祐三の「この特別資料室の書庫に私は籠っていたい」という題の一文は、早稲田大学中央図書館特別資料室の所蔵品を見せてもらいに出向いたことを記したものであるが、その文中にこういう記述がある。

特別資料室の明治期の資料の中心をなすのは「本間久雄文庫」だ。
本間久雄(一八八六〜一九八一、その晩年の日記が三年前に松柏社から刊行された)は坪内逍遙にあこがれて早稲田大学文学部に学んだ英文学者(専門はオスカー・ワイルド)であったが、明治文学の研究者としても多大な業績を残した(それから彼が編集長をつとめていた時の「早稲田文学」の明治文学特集号全七冊[大正十四年三月〜昭和二年六月]は明治文学研究には欠かすことの出来ない第一級の一次資料である)。
その本間久雄が早大図書館に寄贈した蔵書や資料であるが、特別資料室に収蔵されているものだけでも膨大な量がある。

こうした明治物に混って、太宰治の手紙(ハガキ)も収蔵されている。
それは正確に言うと、本間久雄に献呈された太宰の『ヴィヨンの妻』(筑摩書房・昭和二十二年八月)にはさまれたハガキ(発行元は熱海の起雲閣―多くの文人たちに利用されたこの旅館は今は記念館として一般の人も利用出来る)で、その書き出しは、「先生、このたびは、本当にごめいわくを、おかけ致しました」となっている。
太宰治が本間久雄にどのような「めいわく」をかけたのかは謎だが、それ以上に謎なのは太宰治と本間久雄を結ぶラインだ。
その線が私にはまったく読めない。だからかえって興味がそそられる。

太宰治と本間久雄を結ぶライン」が読めず、興味がそそられると、坪内は記しているが、津島美知子『増補改訂版 回想の太宰治』(人文書院)に、そのラインが記してある。

二月、次兄から一通の手紙が届いて、こんどいよいよ山源の邸の買い手がきまったこと、買い手は同じ金木町の角田氏であることなどが告げられたのである。

次に角田氏の令息が早稲田大学商学部を志望している。このさい修治も兄たちに力を貸す気持で令息の入学に力を貸してくれ云々という文面だった。

生家の売却が決まった事を聞くと同時に太宰は次兄の指令で角田氏のために動かなくてはならなくなって困惑した末、早大出身の村松定孝氏に頼むことを、あるいはおしつけることを思いついた。村松氏は山梨県の方で当時はまだ大学院に籍の在る白面の学究であった。数年来、太宰と断続的におつきあいがあって甲府疎開中の一日、水門町まで迎えにきて甲府市の南の市川大門町のご生家に招いてくださったこともある。
二月十五日に村松氏は三鷹に来て太宰から事情をきき、早大の本間久雄博士に紹介の労をとることを約束してくださり、熱海出発前、打ち合わせができていた。

夜帰宅した太宰は背広のまま坐りこんで、出先でのことを語った。ひるま彼を囲んでいた人々はみな散って家の内には三児が寝息をたてているばかりである。
打ち合わせた通り落ち合って、村松氏が本間家へ案内し、太宰と角田町長父子を先生に紹介してくださった。本間先生は演劇通でいらっしゃる。太宰もその方面のことならお話相手がつとまる。一しきり歌舞伎のことで会話がはずんで、そこまではよかった。そのあと先生が金木町の太宰の生家のことを話題に上された。津軽の名門、豪壮な邸宅等、聞き及んで居られたことを先生はおっしゃった。もう津島家のものでないとは、つゆご存じなく、新しいほんとの主の前で―。
工合がわるかった、居たたまれなかったと太宰は泣かんぼかりに訴えた。今まで誇るのみだったあの邸のことで、初めてこの日予期せぬ苦汁を嘗めてしょげ返った彼、それは人気作家ならぬ、ひとりの弱い人の子の気の毒な姿であった。

『本間久雄日記』(松柏社)の解説には以下の記述がある。

国文科出身者で本間と親しかったものには、のち上智大学教授となった村松定孝(一九一八―)

つまり、売りに出した津島家の生家(斜陽館)を購入してくれる角田唯五郎金木町長の息子が早大商学部志望であったため、その入学実現に資する早大関係者とのコネをつくるよう兄の津島英治から指令された太宰は、以前から親交のあった早大院生村松定孝(1918-2007、国文学者)に、村松の恩師たる早大教授本間久雄を紹介してもらうため、1948年3月20日に文京区雑司ヶ谷町の本間宅を村松、角田父子と共に訪問したようである。
本間宛の太宰のハガキはその折の事を謝しているようであり、ハガキが熱海の起雲閣から発行されたのは、そこに滞在して「人間失格」を執筆していたからであった。