殿山泰司の「太宰治」

殿山泰司『三文役者あなあきい伝 PART 2』(ちくま文庫, pp.66-67)

 興亜映画の仲間でもあった俳優座の楠田薫が、新橋のおれんとこへあそびにきて、
「あのね、太宰さんが、こんなとこ、とても好きなのよ」と言ったんだ。
「太宰さん? 太宰さんて、太宰さんて、太宰治のことか?」
「そうよ」おれは昭和十年ぐらいから太宰治ばかり読んでたんだぞ。死ぬほど好きなんだぞ。
「一度連れてくるわね、きっとよろこぶわ太宰さん」本当かアおい、うれしくて胸がつぶれるじゃねえか。
「たのむよ薫ちゃん、連れてきてくれよ、なア、太宰さんを連れてきてくれよ」
「いいわよ」
 そしておれは、あこがれの太宰さんを待ったんだ。毎日のように待ったんだ。それにしても楠田薫は、どうして太宰治をそんなに知ってるんだ。そんなことはどうでもいいか。とに角おれは待ったんだ。だのに、ある朝、新聞で、玉川上水における太宰治・山崎富栄の情死事件を知った。あのときは涙も出ないほど悲しかったな。薫のやつ、もっと早く連れてきてくれれば、太宰治さんとおれと、世紀の会見をしたのに。