大西巨人の出生年をめぐって

講談社文芸文庫版『五里霧』収録の齋藤秀昭・編による大西巨人年譜〔p.269〕*1には以下の記述があります。

一九一九年(大正八年)
八月二〇日、父・宇治恵、母・須賀野の三男として福岡県福岡市鍛冶町で誕生。本名は巨人のりとで、父が命名。当時、父は中等学校に教師として勤務していた。
一九二五年(大正一四年) 六歳
四月、福岡男子師範附属尋常小学校に入学。

一九三〇年(昭和五年) 一一歳
四月、小倉中学校に入学。

一九三四年(昭和九年) 一五歳
四月、福岡高校文科甲類に入学。
一九三七年(昭和一二年) 一八歳
三月、福岡高校を卒業。
一九三八年(昭和一三年) 一九歳
四月、九州帝国大学法文学部法科政治専攻に入学。

大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」(『二松學舍大学人文論叢』第86輯)には以下の発言があります。

鎌田 小説では、東堂は東大にも数か月行きますが、経済的事情が理由で九大に戻ってくる。大西さんの場合も、ほぼ同じだと考えていいですか。
大西 うん。まあ、そんなものよ。

光文社文庫版『神聖喜劇』第一巻〔p.236〕および「ある生年奇聞」(光文社版『二十一世紀前夜祭』〔p.122〕)には以下の記述があります。

いわゆる「早生まれ〔一月一日より四月一日までの間に出生〕」の人間が、尋常小学五年修了から六年を飛び越して中学に進み、中学四年修了から五年に行かずに高等学校に上がれば、数え年十九で「官立大学学部」に入ることができる。

 私と同年配のある男は、いわゆる「早生まれ」であって、尋常小学五年修了から六年を飛び越して・・・・・・以下も、すべて旧制の学校です、・・・・・・中学に進み、さらに中学四年修了で五年に行かずに高等学校へ上がったので、数え年十九で官立大学学部に入りました。戦前には、そういうことが、学制上可能でした。それだから、成績優秀の者は、尋常小学ないし中学の最終学年を経由することなく進学することができました。

以上の引用文から明らかになるのは、大西巨人が「尋常小学五年修了」*2であり、「中学四年修了」であるということ、そして、「遅生まれ」の大西巨人が、「数え年十九」の一九三七年に東京帝大に進学する、というあり得べからざる事態です。「遅生まれ」は「尋常小学五年修了」・「中学四年修了」で通過しても「数え年二十」で官立大学に進学するのが最短のはずなのです。このあり得べからざる事態は、満七歳になる年度始に入学するはずの尋常小学校に、大西巨人が満六歳になる年度始に入学していることに起因しています。
この摩訶不思議なあり得べからざる事態を解くためには、「ある生年奇聞」が役立ちます。「ある生年奇聞」〔p.125〕には以下の記述があります。

 大岩則雄というその男は、戸籍上、一九二〇年〔大正九年〕十一月二十日生となっていて、当人も、そう信じて成長し、成人になり、たとえば尋常小学校一年生に就学したのも、一九二七年〔昭和二年〕四月のことでした。
 ところが、大岩は、実は、一九二二年〔大正十一年〕三月八日すなわち戸籍面よりも約一年三カ月後に生まれたのです。だから、大岩は、実に満五歳と一カ月にして、尋常一年になったのだった。

大岩則雄は、戸籍上出生年度(一九二〇年度)が実際上出生年度(一九二一年度)より一年早いのです。そのため、実際の就学年度より一年早く「尋常一年」になったのです。
大西巨人は、私小説的な、現実と虚構の混同を、厳格に排すことを創作上の原則としていることを、幾度も表明しています。一方で、大西巨人が実体験をかなり忠実にリアリスティックに、小説に書き込んでいることはエッセイやインタヴューや履歴などを参照すると明らかです。
大岩が大西に、則雄のりお巨人のりとに、菅子すがこ須賀野すがのに類似した名であるのは見易いでしょう。国光は教師ですが、『神聖喜劇』の東堂太郎の父・国継や「娃重島情死行」の志貴太郎の父・重国も教師であり、大西巨人の父・宇治恵と同じです。国光、国継、重国と「国」の字を使用しているのは『福岡縣神社誌』の編纂者である大西宇治恵の雅号に「国」という字が使われているのだと推測できます*3
ゆえに、先の引用文(「ある生年奇聞」〔p.125〕)を書き換えるとこうなります。

 大西巨人というその男は、戸籍上、一九一八年〔大正七年〕度生となっていて、当人も、そう信じて成長し、成人になり、たとえば尋常小学校一年生に就学したのも、一九二五年〔大正十四年〕四月のことでした。
 ところが、大西は、実は、一九一九年〔大正八年〕八月二十日すなわち戸籍面よりも約五カ月以上一年四カ月以下後に生まれたのです。だから、大西は、実に満五歳と七カ月にして、尋常一年になったのだった。

大岩則雄と大西巨人の出生年度を整理すると以下のようになります。

名前 戸籍上出生年度 実際上出生年度
大岩則雄 1920年 1921年
大西巨人 1918年 1919年

「ある生年奇聞」では、大岩則雄が実は父・国光、母・菅子の子ではなく、つまり国光、菅子は戸籍上の両親であって、大岩則雄の実際上の母は冬子(国光の妹)であり、実際上の父は「不誠実な男」であると推断を下すのです。
斎藤環は『文学の徴候』所収の大西巨人論「外傷性の倫理」で、「意味記憶」(一般的知識、客観的事実)と「エピソード記憶」(個人的記憶、思い出)の差異に対する意識が、歴史意識であり、「意味記憶」と「エピソード記憶」の無自覚な混同が、非-歴史的な俗情の起源であると説明しています。そして、「意味記憶」とも「エピソード記憶」とも分かち難い性の領域(俗情的領域)における外傷こそ、「意味記憶」と「エピソード記憶」の乖離=峻別としての歴史意識をもたらすと記しています。
いささか附会すれば、出生年月日も「意味記憶」と「エピソード記憶」が分かち難い領域ではないでしょうか。本来、出生年月日は戸籍上も実際上も(ほとんど)一致していなければなりません(あるいは、公的な記録と私的な記憶は一致していなければなりません)。しかし、戸籍上が実際上と不一致であり、不一致をある時点まで知らずに成長する場合、不一致を知った時、「意味記憶」(客観的事実)と「エピソード記憶」(個人的記憶)の乖離を自覚することに帰結するでしょう。大岩則雄にあっては、「個人的記憶」では一九二〇年生れであったのが、「客観的事実」としては一九二二年生れであったわけです。「客観的事実」であるべき公的=歴史的な戸籍上の出生年月日が虚偽であると知ったのです。
もし万が一、「ある生年奇聞」のごとく大西巨人に、戸籍上と実際上の生年月日をめぐる喰い違いが存在したならばどうでしょう。「歴史偽造の罪」*4に対する拘泥はここに淵源しているのかもしれません。

*1:齋藤編の大西巨人年譜は「著者の一閲を得」ている。

*2:奇妙な入試情景 ①」「奇妙な入試情景 ②」「奇妙な入試情景 最終回」参照。

*3:東堂太郎の祖父は東堂国房であり「国」の字が使用されている。『神聖喜劇』「第二部 混沌の章/第三 現身の虐殺者/四」参照。

*4:「第三十二章 歴史偽造の罪」(『深淵(下)』)、「一大重罪〈歴史の偽造〉」(『世界』2007年8月号)等参照。