「渡邊慧と石川達三」について


ⓐ「渡邊慧と石川達三──永久平和革命と『風にそよぐ葦』──」*1から。

この連中は、「暴力革命」についての自分勝手の幻想におびえてヒステリックになるよりも、「アメリカ占領軍が存在する場合でも平和な方法によつて日本が直接社會主義へ移行することが可能であるというようなブルジョワ的な俗物的な言」という文章を含むコミンフォルムの批判を熟讀し、渡邊らをもそのなかに包容する日本民族の獨立・人民民主主義的日本建設への平和的發展を現に阻んでいるものは何か、何が働く人民大衆と共に平和革命の達成をこそ最も表裏なく希求する日本共產黨にその戰術の大轉換をさえ强制しかねないかを、愼重に熟考するがよかろう。


ⓑ「黄金伝説」*2から。

夜どおし書き続けたので、彼は肩がこり、膝がしらがいたんだ。しかし疲労にもかかわらず、仕事をすました直後のすがすがしい喜びが彼を支配していた。彼は一昨夜から始めた『S─評論』のための原稿をいま先書きおわつたのであたつた。

 (…)

新城は原稿に目を落した。「・・・・・・この連中は、『暴力革命』についての自分勝手な幻想におびえてヒステリックになるよりも、『アメリカ占領軍が存在する場合でも平和な方法によつて日本が直接社会主義へ移行することが可能であるというようなブルジョワ的な俗物的な言』という文章を含むコミンフォルムの批判を熟読し、彼らをもそのなかに包容する日本民族の独立・人民民主主義的日本建設への平和的発展を現にはばんでいるものはなにか、なにがはたらく人民大衆と共に革命の平和的達成をこそ最も表裏なく希求する日本共産党にその戦術の大転換をさえ強制しかねないかを、慎重に熟考するがよかろう。」という結末の部分をもう一度読み返した。それは彼の心にかなつていた。・・・・・・


ⓒ「伝説の黄昏」*3から。

 新城は、夜を徹して書きつづけたので、肩も凝って、膝小僧も痛んだ。しかし、疲労にもかかわらず、一仕事完了直後のすがすがしいよろこびが、彼を支配していた。彼は、月刊綜合雑誌『両世界展望』(東京一ツ橋有隣館発行)三月号のための小論文を、一昨昨日夕方に書き始めたのであり、いましがた脱稿したのである。

 (…)

新城は、原稿用紙のかさなりにに目を落した。彼は、最前彼が書き上げた小論文の結末部分を改めて読み返した。

     「CIB批判」は、「日本占領アメリカ軍が存在する場合でさえも、平和的な方法によって日本が直接に社会主義へ移行することが可能であるというようなブルジョワ的・俗物的な言いぐさ」という鋭利な指摘を中心的に含有する。マルクス主義組織は、人民大衆とともに、革命の平和的達成をこそ、最も本源的に、最も真摯に、希求する。しかるに、ある種の人人は、「暴力革命」に関する彼ら各個の主観的な(勝手気儘な)幻想にみずから怯えてヒステリックになっている。彼らは、そんな所から速やかに脱却し、「CIB批判」を虚心に精読して、何が日本民族の独立ないし人民民主主義的日本建設への平和的発展を現に阻んでいるか・何が日本のマルクス主義組織にその戦術の大転換をさえ強制しかねないか、を慎重に熟考するべきである。

 それは、ずいぶん新城の意に叶っていた。


ⓓ「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」*4から。

鎌田 『近代文学』の話をしてきましたが、ふと思ったことがあって、・・・・・・大西さんは割と早い時期に、確か五〇年位には同人を退かれているでしょう。これには何か理由があったんですか。
大西 『風にそよぐ葦』(大西巨人の評論「渡辺慧石川達三──永久平和革命と『風にそよぐ葦』──」のこと)。
鎌田 五〇年の論文。
山口 五〇年ですね。
鎌田 同人になったのが四八年でしたか。
山口 四七年ですね。
鎌田 確か、この論文の正式タイトルにも石川さんの名前がありましたね。
大西 あれを書いたらね、『近代文学』は掲載をためらったんだな。それで、『新日本文学』に載せてもらうように中野に送った。それで、冒頭のところ、確か冒頭だったと思うが、これは『近代文学』用に書いたけど、『近代文学』が載せるのをためらった、だから『新日本文学』に出すというようなことを書いた。そうしたらね、中野から手紙が来て、冒頭の言葉をあとがきにまわす、ということだった。それで、『新日本文学』に載った。そのときに、この論文を載せるのをためらうようなところに同人としているのは潔しとしない、ということでやめた。
鎌田 『近代文学』がためらったのはなぜでしょうか。石川達三批判は「「芸術護持者」としての芸術冒瀆者」からやっているわけで、渡辺慧に関してですか。
大西 いや、石川達三の方じゃろう。それはね、後に、こういうことがあったのとある意味で何か通じているのではないかな。新日本文学賞が一時できたでしょう。それができたのは、三一書房が『人間の条件』で確かうんと金儲けたでしょう。それの税金対策なんかで新日本文学賞というものを作った。賞金は五万円やったかな。そのことが常任幹事会で議題として出たときに、その選者に石川達三、有言佐和子、ふたりとも当時のベストセラー作家よね、それを加えることに全員賛成なんだ。反対は、俺ひとりなの。
鎌田 その時は、中野さんも賛成したんですか。
大西 うん、賛成。全員賛成なんだ。新日本文学賞というものを作って、その選者に有吉佐和子石川達三を入れる。そんなのは、おかしいじゃないか、新日本文学賞だと言うのに。もし世間的に知名度ということを言うのなら、椎名麟三梅崎春生もいるはず。そういう選者に、新日本文学会とは関係のない人間で、しかもベストセラー作家を選ぶのはおかしいと一人反対したんだ。それで結局、ふたりとも選者にはならなかったがな。


 (…)


鎌田 話を戻すと、『近代文学』が「渡辺慧石川達三」の掲載を躊躇した理由も、石川達三が当時すでにベストセラー作家だったという事情と切り離せないんでしょうか。荒さんや平野さん、あるいは埴谷さんでもその程度の判断なんですかね。この論文は前の論文(「「芸術護持者」としての芸術冒瀆者」)の必然的延長に思えて、後者がよくて前者がだめ、というのがよく分かりません。
大西 俺も、なぜか分からん(笑)。
山口 ためらうということですが、掲載できないという明確な連絡はあったのでしょうか。
大西 いや、連絡はして来なかった。明らかに時間的にね、おかしいんだよ。相当日にちが経って、原稿はそこにあるのに連絡がなかった。
山口 送ったけれども、放置されていて、音沙汰がなかった。
大西 うん、そうね。
山口 で、大西さんのほうから問い合わせをされた。
大西 したんだろうと思いますがね。


ⓔ「渡邊慧と石川達三」の冒頭から。

編集部記──大西氏のこの篇は、今年三月に書かれたものである。それがかくおくれて發表されることは編集部としても殘念である。大西氏自身「今日にして不十分な點をも感じるけれども」といつているが、氏の承諾を得てここに印刷するわけである。


ⓕ「渡邊慧と石川達三」の末尾から。

(一九五〇年三月・福岡市友泉亭にて)


「黄金伝説」/「伝説の黄昏」で主人公・新城明洋/太郎が徹夜して論文を書きおえたのは「一月下旬の土曜日」/「一月第三土曜日」(1950年1月21日)のことである。論文は『S─評論』/『両世界展望』三月号のために執筆したのである。その論文が「渡邊慧と石川達三」であることはⓐⓑⓒから明らかである。
ⓓで大西巨人は「渡邊慧と石川達三」を『近代文学』用に執筆したが、放置されたので、『新日本文学』に送ったと述べている。
しかるに、小説中ではあるものの、ⓑⓒで「渡邊慧と石川達三」は『S─評論』/『両世界展望』用に執筆されている。『S─評論』/『両世界展望』という雑誌名は、大西巨人が「精神の氷点」を連載した雑誌である『世界評論』(世界評論社)を連想させるものである。『世界評論』は1950年5月号で廃刊になった。
ⓔⓕにあるように1950年3月に擱筆した「渡邊慧と石川達三」は、最初『世界評論』へ寄稿するための論文であったが、同誌が1950年5月号で廃刊になったことによって掲載できなくなり、『近代文学』に送ったが放置され、『新日本文学』に送り1950年11月号に掲載となったのではないか。

*1:新日本文学』1950年11月号

*2:新日本文学』1954年1月号

*3:地獄変相奏鳴曲』

*4:二松學舍大学人文論叢』第86輯