藤田田の「太宰治」


藤田田物語」(日本マクドナルド株式会社広報部編『日本マクドナルド20年のあゆみ 優勝劣敗』pp.124-125)

 東大在学中に藤田は、戦後史を彩った人物たちと付き合っている。「光クラブ事件」で有名な山崎晃嗣や、流行作家の太宰治らである。
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 このころ、藤田は「作家の太宰治とも三鷹でよく飲んだ」。太宰は、山崎が自殺する前年の1948年6月13日に愛人と玉川上水に飛び込んで心中していた。藤田は、たまたま太宰が自殺する直前まで、三鷹の酒場で飲んでいた。そんな関係から「太宰は自殺したのではなく、玉川上水の狭い道で足を滑らせて、あの災難に遭ったんだろう」(藤田)と、事故説をいまでも主張している。「とにかく、あの日は雨がザンザン降りの上に、太宰はカストリ焼酎で、足元がふらつくほど酔っていた。だから『危ないから気をつけなよ』といって別れたほどです。あの状況からいって、私は、まちがいなく足を滑らせて落ちたんだと思いますよ」(藤田)。
 軟弱という理由で、藤田は、太宰の文学をきらった。しかし、そんな太宰でも、一緒に酒を飲むには良い相手だったらしい。当時の太宰は、肺病が相当進んでいて、咳をするとコップに半分くらいの量の喀血をよくしていた。太宰自身、いつ死んでも良いといった心境でいたのは確かである。そして、このふたつの理由により、藤田は太宰の事故死説を今だに主張している。
 藤田が、光クラブの山崎やデカダンの作家太宰と親しく付き合ったのは、藤田自身の中に当時、彼らの生き方に惹かれる虚無的な心情があったためであろうか。


「[わたしの道]藤田田さん(2)多彩な学生時代 太宰治らと交遊」(聞き手・経済部次長 早川準一、読売新聞1996年4月22日朝刊)

 ──作家の太宰治氏ともつき合いがあったようですね。
 藤田 友人が三鷹にいましてね。よく遊びに行っては、駅前の屋台で飲んでいたんです。太宰もそこに来ていましたから。わたしはいつも、彼に「あんな軟弱文学では日本は良くならない。これから復興させていかなきゃいけないんだから、もっとたけだけしい文章を書いてほしい」なんていっていました。
 あの人は肺病で、酒を飲んでいても、グラスに血がにじむような状態でした。
 ──太宰も自殺ですね。
 藤田 実は、あの日も、私は彼と一緒に飲んでいたんですよ。雨がかなり降っていましてね。女性が迎えにきて、間もなく二人で帰って行ったんです。太宰は、かなり酔っていましてね。玉川上水の土手みたいなところを歩くわけですから、私は「危ないな」と思っていたんです。
 私はね、今でもあれは自殺ではなくて、事故じゃないかと思っているんです。酔って、土手から滑り落ちたんじゃないかと。あの人は、自殺をほのめかすようなことは、何もいってませんでしたし······。
 ──太宰氏との話は、さらに後日談があるとか。
 藤田 ええ。ずっと後のことですが、ある代議士から突然、食事に誘われましてね。「うちの家内があんたを知っている」というんです。奥さんが、太宰の娘さんだったんです。
 ──津島雄二さん(自民党)ですね。
 藤田 ええ。そういえば、当時、酔っぱらって太宰の家に行くと、お子さんが三人いましてね。その一番上の娘さんが(津島さんの)奥さんになったわけ。私のことを覚えていてくれたらしいんです。