- 絓秀実『小ブル急進主義批評宣言』(四谷ラウンド、1999年1月8日 第1刷発行)
ブックデザイン◎佐伯通昭/写真◎伊東和則
(Ⅰ)文学論・状況論
われわれは、いかにして小ブル急進主義者となるか*1
- 革命家としての知識人
- 相対的な無責任の横溢
- アンチ・エディプスとは誰か
「純文学」をもこえて*2
- 芥川賞の五十年
- 大衆と〈非知〉
- 弱者の光学
- メディア状況の今日
- 新聞記者とスキャンダリズム
- 文芸評論家の「役割」
- 描写・換喩・強度
井戸さんのこと──「現代小説の布置」補遺*4
- バブル崩壊以降
- 女というイロニー
- 鏡を否認する「女」
「メディア」が透明でなくなった時──ナショナリズムとジャーナリズム*6
その「許し」に安堵するのは誰か──加藤典洋『敗戦後論』批判*7
- 「ねじれ」たパフォーマンス
- インターネット的な「われわれ」
- 「許し」は不可能である
(Ⅱ)作家論・思想家論
- 「半島」という現実
- 第三人称への破棄へ
- 部落民に「なる」こと
物語の重力の中で小説は如何にして生息するのか──中上健次『重力の都』を読む*9
- 夜と水の、盲目の叙法
- ミニマリズムとノンフィクション
- 様々なタイチ
- 破棄される「一」
- 或る方向転換
- 新人であり続けること
- 多言語性という「寓話」
- 方法としてのパルチザン
井上ひさしと天皇制──『紙屋町さくらホテル』をめぐって*12
- 三島・大江以降の七〇年代作家として
- 捏造される演劇史
- 責任を回避しうる「非=人間」
- 中上・永山・たけし
- アンチ・オイディプス
- 自ら語りえない「教祖」
丸山真男という「呪物」──「戦後」を回避した戦後思想の首領 *15
(Ⅲ)文藝時評「(最後の)小説」は冷戦後をどう生きるか──「サリン-オウム」事件と大江健三郎『燃えあがる緑の木』*16
- オウムというエンターテイメント
- ドキュメンタリーの「語り」
- 戦後五十年の中上健次······
- 本文校訂の諸問題
- 文学者となる法
- 「かあいそう」ということ
小説にとって「歴史」とはなにか──船戸与一『蝦夷地別件』*19
- 「原罪」と疚しさ
- 「無責任」の爽快さ
- 美学化による救済
私が「それ」である──村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』*20
- 「偽史」への膨張
- 似ている/似ていない
- 「歴史」への抵抗
「物質」としての小説を読む──島田雅彦『忘れられた帝国』*22
- 「おたく」をめぐる論争
- フィスト・ファック
- 女は存在しない
探偵小説は変貌する!?──奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』*25
- 「殺人事件」というタイトル
- スケープゴートを指定する
- ハードボイルドでもなく······
「あとがき」にかえて
小ブル急進主義批評とはなにか──その起源と現在*27
- 一九六八年の革命
- カウンター・カルチャーの「反復」
- 疎外論の回帰と「欲望」
初出一覧*28
「本書は、私がここ十年ほどのあいだ、その時々のジャーナリズムの要請によって書いてきた文芸批評のうち、今なおそれなりに読むに耐えると思われるものをまとめた。「読むに耐える」とは、小ブル急進主義批評として、という意味である。」「本書の編集については、堀内恭氏の懇切な配慮を得た。」
『小ブル急進主義批評宣言』書評