大西巨人・無頼派作家・太宰治

    A
朝日ジャーナル』1986年11月21・28日号に発表され、短篇集『二十一世紀前夜祭』に収録された大西巨人の小説「昨日は今日の物語り」には以下の記述がある。*1

 「老大家」村正黒鳥からは、その都度、はがきの真ん中に一行だけ鉛筆書きの「乍遺憾執筆致兼候。」という無愛想な、だが明快な返事が来た。「乍遺憾」の三文字は、小さくあとから書き加えられていたりもした。「文学の神様」大津順吉の返事態度も、澄明にして立派であった。俗称「デカダン派」とか「無頼派」とかの津島修、逆口鮟鱇、小田策之介などが、諾否どちらの場合にも、実に気持ちのよい親切さをもって、市民倫理を実践した。ここで僕が言う「市民倫理」とは、有名な『第一インタナショナル創立宣言』が言う「個々の私人間の関係を支配するべき道義および公正の単純な諸法則」のことである。
 以上五氏のごときは、各様の意味において、さしあたり、“返事を呉れそうにない・呉れなくても不思議ではない”部類の人たちに属した。いわゆる「進歩的・民主的」な人たち、また「人生派」とか「庶民的」とか呼ばれてきた文筆家たち(たとえば『流浪録』の作者森不味子だの『茄子の蔕』の作者鍋井萎だの)などは、まずは“返事を必ず呉れそうな・呉れなかったら不思議である”部類の人たちに属した。
 ところが、この場合(原稿注文に関する場合)において、市民倫理を守ろうとしなかったのは、後者の部類の人たち、なかんずく「進歩的・民主的」な人たちの多くであった。

以上の記述を念頭に鎌田哲哉は『未完結の問い』(作品社、2007年)p.104で大西巨人に問うている。

───「昨日は今日の物語り」には、大西さんたちの原稿依頼に対する、既成の書き手の反応が書かれています。老大家や無頼派の方が親切かつ誠実で、いわゆる民主陣営にいる人たちの方がかえって冷淡だった、と。作中でも暗示されているんですが、そこにはやはり『文化展望』が福岡発行である、という事情があったんでしょうか。
大西──ここらへんの君の問いは、作品と作品以外とを一緒くたにしていて、日本の私小説的読み方に堕している難がある。いま私は、雑誌『文化展望』の編集者として、現実を話す。いわゆる「無頼派」の人たち、太宰治坂口安吾織田作之助らの応対は、いずれもきちんとして立派なものでした。いわゆる「民主派」なり「人生派」なりは、概してそうではなかった。しかし、その理由は私は知らない。いま私は、その理由推定を述べる気もない。

復刻版 文化展望』(不二出版、2004年6月10日第1刷発行)の別冊「『文化展望』解説・総目次・索引」には大西巨人インタビュー「几帳面な無頼派作家」(聞き手=狩野啓子 二〇〇三年九月)が掲載されている。そこには以下の記述がある。

大西 〔…〕ああ、これは無頼派作家とか何とか言われとるけど、ちゃんとした人だなあと思いましたがね。大体、無頼派作家と俗に言われている織田作之助太宰治・坂口、ちゃんとしてるんです。そういうことが。
狩野 何だかちょっと意外ですよねえ、普通のイメージからすると。
大西 うん、そしてねえ、不思議なことに、まあ当時ちょっと、いくらかいい気になっとった点もありましょうがね。要するにね、いわゆる左翼ですな、民主派。それと人生派と俗に言われるでしょ、たとえば林芙美子とか。そういうのは駄目なんです。そういうことが。
狩野 ルーズなんですか?
大西 うん、ルーズ。たとえば、原稿依頼はちゃんと行って、返信料がついとっても、返事が来なかったりね。
 そういうことに、坂口安吾とか太宰なんかは、ちゃんと断るなら断る。それから、正宗白鳥みたいな、いわば大家ですな。それはちゃんとしてるんです。謝絶するならするでね、「お断りします」と。「遺憾ながら」ちゅうのをちょっと横へ入れたりして・・・・・・。それでね、ああ、これは普通に考えたら、まあ、俗な考え方をしたら、無頼派とか大家とか言われる人は返事もくれない、人生派のほうは・・・・・・。
狩野 林芙美子などは庶民的なイメージが強いですものねえ。
大西 そう思いましたけど、反対なんですよ、それが。そういうことがあってね。
 〔…〕
大西 だからその、坂口安吾ちゅう人なんかは、考えたら、たいそう几帳面だったですよ。
狩野 太宰治もやっぱりそういうタイプだったんですね?
大西 ああ、太宰もやっぱりそういうところありますね。割りにちゃんとしてますね。
 〔…〕
大西 あの名前がねえ。無頼派ちゅうと、なんか出鱈目屋みたいな。
狩野 マスコミが元々つけた呼び名ですから。ところで、左翼系の作家にも、やっぱりそういうルーズな面があったんでしょうか?
大西 いやあ、そう思いますねえ。
狩野 それはまた別の理由なんでしょうか? どうして?
大西 やっぱりねえ。だから、そういうところで・・・・・・。決して、皆が皆じゃあないですよ。しかし、そういうところがあったから、そしてそういうふうなことをしたから、ずうっと引っ張っていったら、今度の、最近の、冷戦におけるアメリカの勝利のようなことが出てきたんだと思いますね。
狩野 だんだん、信頼感が無くなっていく?
大西 だからね、信頼感もないし、そのやり方が間違いだと思うんですよ。だから、かくのごとくなって、この頃はブッシュが人殺しをしよるのもね、左の責任も相当大きいと思いますね。もちろん、そういう「左」ですよ。だから、そこを今後押さえていかないかんと思うんですよ。

太宰治は『文化展望』1946年4月号(VOL.I NO.1)に「十五年間」を、織田作之助は『文化展望』1946年6・7月号(VOL.I NO.3)に「都市展望 大阪」を、坂口安吾は『文化展望』1947年1月号(VOL.II NO.7)に「ぐうたら戦記」を、田中英光は『文化展望』1948年6月号(VOL.III NO.13)に「兄弟」をそれぞれ発表している。檀一雄は「文化展望」に寄稿した旨記しているが、『復刻版 文化展望』を閲するかぎり確認できない*2

    B
『思想運動』1998年12月1日号に発表され、短篇集『二十一世紀前夜祭』に収録された大西巨人のエッセイ「太宰治作『十五年間』のこと」には以下の記述がある。

 私は「小説展望」ないし「文芸展望」という埋め草のような雑文を『文化展望』に毎号執筆した。それが、私の文筆公表開始であった。
 『文化展望』第二号・一九四六年五月号所載「小説展望」の中に、私は、『十五年間』を評して、〝敗戦後、僕の目に触れた限り、「過去への反逆」がない唯一の小説〟というように書いた。

2004年に刊行された大西巨人の長篇小説『深淵』第七章には以下の記述がある。

 ──大庭宗昔は、敗戦翌年(一九四六年)の春、彼の発表した二度目のエッセイに、太宰治作短篇小説『十五年間』[『文化展望』一九四六年四月創刊号]にたいする「敗戦後、僕の目に触れた限り、『過去への反逆』がない唯一の作物」という評語を書き入れた。・・・・・・

『文化展望』1946年5月号(VOL.I NO.2)所載の「小説展望」における、大西巨人による「十五年間」への正確な評語は下記の通り。

太宰治『十五年間』敗戰以來目にふれた作品の中で、殆ど唯一の『過去への反逆』の無い作品。保身の術を蔑視することの不賢明さと崇さと示してゐる好例。ただ、この作者は自分の身につけたポーズに甘えることを警戒すべきであらう。―『文化展望』創刊號

大西巨人発案の批評用語「過去への反逆」とは下記の通り。

“保身、処世、便乗、順応、利己のため、人が、しばしば外部の現実、弾圧なり強制なり時勢なりの類に藉口しつつ、十五年戦争中における自己の言行に「手の平を返す」ごとく「反逆」し、戦前ないし戦中における自己の「苦衷」または「面従腹背」などをお手盛り的に披露したりもして、「一時代前にたいする義憤」を「いまだからこそ言う(ことができる)」的に言い立てること”

「十五年間」における以下の記述が「『過去への反逆』の無い」箇所の一つであろう。

私は戦爭中に、東條に呆れ、ヒトラアを輕蔑し、それを皆に言ひふらしてゐた。けれどもまた私はこの戰爭に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思ふが、しかし、日本に味方するつもりでゐた。この点を明確にして置きたい。

    C
大西巨人編纂による『日本掌編小説秀作選』(光文社、1981年)の編者解題として執筆され、『俗情との結託 大西巨人文藝論叢 上巻』(立風書房、1982年)及び『大西巨人文選 3 錯節 1977-1985』(みすず書房、1996年)に収録されたエッセイ「日本の短(掌)篇小説について」には以下の記述がある。

 清潔なエロティシズムの極致を一筆で描き出した『満願』(太宰治)。その作者に、別の初期作品『ダス・ゲマイネ』がある。ある初秋の夕方、作中人物馬場数馬が、作中人物兼語り手「私」にむかって、「信じ切る。そんな姿はやっぱり好いな。あいつ(甘酒屋の菊ちゃん十七歳)がねぇ、僕のこの不精鬚を見て、幾日くらゐたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらゐでこんなになってしまふのだよ。ほら、じっとして見てゐなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教へたら、だまってしゃがんで僕の顎を皿のやうなおほきい眼でじっと見つめるぢゃないか。おどろいたねぇ。君、無智ゆゑに信じるのか、それとも利発ゆゑに信じるのか。ひとつ、信じるといふ題目で小説でも書かうかなぁ。AがBを信じてゐる。そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て来て、手を替へ品を替へ、さまざまにBを中傷する。──それから、──AはやっぱりBを信じてゐる。疑はない。てんから疑はない。安心してゐる。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。ははん。」と言う。
 (a)太宰がその作品多数おのおののどこかに「つまらない小説だね。ははん。」というような言句を明示的にか暗示的にか書き入れずにはいられなかったこと、(b)そういう含羞擬態的シニシズムが彼の文学一般を否定的に制約したこと、(c)たとえば『満願』はそんな余計な物・なくもがなの物を伴っていないこと、(d)太宰愛読者多数が(a)および(b)的側面にばかり傾倒したがること、──それらは、等閑に附すべからざる事柄であるが、

國文學 解釈と教材の研究』1982年3月号に発表され、『観念的発想の陥穽 大西巨人文藝論叢 下巻』(立風書房、1985年)に収録されたエッセイ「「有情滑稽」の問題」には以下の記述がある。

 ──それらの作者たち*3の相当部分に共通せる特徴ないし欠陥は、「まことしやか」な物事(ニセモノ)にたいする嫌悪・排斥・拒絶を意識的あるいは無意識的な口実なり看板なりにして「まこと」(ホンモノ)にたいする回避・傍観・圧殺を試みたことである。そして、「まことしやか」な物事にたいする嫌悪・排斥・拒絶という意識的あるいは無意識的な隠れ蓑によって「まこと」にたいする回避・傍観・圧殺を試みることは、すなわち世界現実にたいして「斜に構え」ることであった。
 〔…〕
 「「まことしやか」な物事にたいする嫌悪・排斥・拒絶を意識的あるいは無意識的な看板なり口実なりにして「まこと」にたいする回避・傍観・圧殺を事実としてたくさん試みた代表的先行者は、太宰治であった。昨年、私は、太宰について「含羞擬態的シニシズム」ということを書いた(カッパ・ノベルス版『日本掌編小説秀作選』巻I)。人が世界現実に対して「斜に構え」ることは、取りも直さずその人が「恥じらい」とか「含羞」とかの心を所持していることである、──そのように、世の近眼連中は、ともすれば錯覚する。そういう連中は、「含羞擬態的シニシズム」と「含羞」そのものとを、まして「廉恥」とを、まったく取り違えているのである。
 〔…〕
 だが、世界現実にたいして「斜に構え」ることは、「含羞」ないし「廉恥」からずいぶん遠い精神であり、『中庸』の「学ヲ好ムハ知ニ近ク、力メ行フハ仁ニ近ク、恥ヲ知ルハ勇ニ近シ。」における「恥ヲ知ル」とは裏腹の魂である。

2005年12月発行の『季刊at』2号には大西巨人高橋源一郎による特別対話「文学の「本道」を行く」が掲載されている。p.9に以下の記述がある。

大西──どこかで、あなたは太宰治がとても好きだと、書いていましたね。
高橋──ええ、太宰もすごく好きなんですが、太宰の面白いところは、言葉を公に発する者は責任を負わなければいけない、後でこっそり訂正するような言葉は使うな、というところと、最近の吉本さんの対談集のタイトルでいうと「だいたいで、いいじゃない」というような(笑)、いい加減なところの両方があることなんですね。
大西──太宰治は能力のある人だと思います。とても有能の士だと思うんですがね、もう一つ二つふんばったら大きい小説に達することができたんじゃないか。しかし、桜桃忌ですか、ああいうところに集まる太宰ファンの大部分は、太宰の持っていた、そうでない弱いマイナス面にばかり・・・・・・
高橋──太宰のそういうところを愛しちゃってますからね。
大西──しかも自分の、人間としての弱い、まずい点をね、優しく頭をさすってもらうようなところで、太宰に接近している。
高橋──彼は読者を甘やかしますからね。
大西──うん、そういうところを感じますね。

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大西巨人の長篇小説『深淵』第七章には以下の記述がある。

太宰の文学にたいする麻田の積極的な関心は、これまた太宰の文学にたいする大庭伯父の実はたいそう両面価値的な関心に由来した。・・・・・・
 太宰作『ダス・ゲマイネ』にたいする麻田の愛好も、そんな経過の中で生まれたのであった。

*1:2007年に刊行された『地獄篇三部作』の第一部「笑熱地獄」は1948年に雑誌『近代文学』に発表されるはずの小説であった。その「笑熱地獄」には「昨日は今日の物語り」とほぼ同一の箇所がある。「笑熱地獄」の一部を抜粋改訂し短篇小説にしたのが「昨日は今日の物語り」であろう。

*2:https://yokoimoppo.hatenadiary.com/entry/20140219/1392814290

*3:第三の新人」、「内向の世代」、「青の世代」または「空虚の世代」