檀一雄と『文化展望』

檀一雄の文章には下の箇所がある。


「帰去来」(『群像』1955年1月号)

 薄い夏蒲団を一重ね。それに炊事の鍋一つ。マナ板一つ。庫裡の二階の板敷二十畳を借り受けて、太郎と二人、心ゆくばかり、筑隆平野の櫨のもみじを眺めくらした。
 食べるものは芋粥だ。人蔘や菜の雑炊だ。杜甫の詩を、月に二三篇ずつ訳し、「午前」の真鍋呉夫君や、「文化展望」の大西巨人君らに買って貰い、その詩稿料が月に五百円位になったか、千円ぐらいになったか。

「息子と共に」(『新潮』1955年10月号)

 妻の死の後は、太郎を首に巻いて、九州のそこここを転転と暮して歩いた。
 その中でも思い出が深いのは、山門郡東山村の山の中の破れ寺に暮した半年ばかりの生活だ。
 寺の庫裏の二階を借りていたが、間借り代が月に百円位であったろう。畳も何もない板の間だ。雨戸も障子も入っていない。南北から風が吹き通して、それでも月が飽くことなく美しかったことを覚えている。
 その寺の和尚からよく薩摩芋を貰い、その薩摩芋をふかして、山頂に腰をおろし、太郎と二人して喰うのが実にうまかった。
 また少年の頃よくとっていた山饅頭とか、山葡萄とか、栗の実とか、粟の実とか、それを拾って太郎に教えるのが限りなく楽しかった。
 収入は杜甫の詩を一二篇ずつ「文化展望」や「午前」に売り込んで、その稿料の三百円から五百円ぐらいで事足りた。

「微笑」(『新潮』1961年9月号)

 私は一郎と二人、寺の庫裡の二階の板の間を借りて、自炊した。杜甫の詩を月々二三篇ずつ訳し、折から真鍋呉夫君や北川晃二君らが編集していた「午前」や、大西巨人君らが編集していた「文化展望」にそれぞれ寄稿して、それでも、ひと月、五六百円位にはなったろう。かつがつに、飢えを凌いでいたのである。
 食べるものは藷粥だ。大根の葉。芋の茎。寺の和尚が分けてくれる山の畑の疏菜類を、胡麻で和え、煮干しで和え、豆腐で和えて、親子二人して舌鼓を打ったものだ。

出世作のころ」(『読売新聞』1968年3月8日〜23日夕刊)

 私は、太郎と骨壺をかかえながら、柳川から五、六キロばかり離れた山寺の庫裡の二階にかくれ住んで、夏から秋と、わずかに一冊手持ちした杜詩を読みくらした。
 夜は月が飽くことなく明るく、見はるかす筑後平野に櫨の葉が赤くもみじしてゆくのである。時たま私をたずねてきてくれた人といったら真鍋呉夫君ぐらいのものであった。私は杜詩を訳して、真鍋呉夫君や大西巨人君らが編集している「午前」や「文化展望」に持ち込み、その詩稿料が三百円であったか、五百円であったか、週に一度ずつ、鰯を買って、太郎と二人してむさぼり食った。朝夕筧の水をかぶり、山上の薄の穂波の吹きなびくさまをながめやりながら、王者をもしのぐほどの誇らしさを味わった。おそらく生涯で、もっとも充実した一時期であったろう。

「風土と揺れる心情と」(『問題小説』1973年10月号)

 実を申し上げれば、善光寺では、太郎と二人、芋ガユをすすったり、鰯をかじったり、僅かに月に杜甫の詩を一、二篇、翻訳して、それを福岡の真鍋呉夫君のところに持参したり、大西巨人君の所に持参したりして、「午前」や「文化展望」に掲載して貰い、その稿料が三百円であったか、五百円であったか、貰い受けかつがつに餓えをしのいでいたわけである。


然しながら、檀一雄の原稿は『文化展望』に一度も掲載されていない。『午前』1947年2月号には「杜詩四篇」(「菊花の節崔氏山荘にて」「水のほとり」「旅」「春に帰る」)が掲載されている。
大西巨人は『文化展望』休刊後の1948年11月に『午前』編集部に加わっているので、檀一雄が勘違いしたのではないか。それとも、原稿を渡したが『文化展望』休刊で掲載されずに終わったのだろうか。