『大西巨人文選 1 新生 1946-1956』(みすず書房/1996年8月8日第1刷発行)
1946
- 独立喪失の屈辱
知識人の責務の今日におけるほど重大なるはない。しかも彼らの様子の昨今の軽佻さは、いったい何事であるか。ふたたび国運と文化とにおいてあやまつことがないために、われわれは、われわれの屈辱の苦杯の味を反芻三芻しなければならぬ。恥を知る者は、強い。
- 映画への郷愁
黒と白との光線の芸術が、私たちに、若い日日の美しさをどんなに語り聞かせたことか、生きて行くことの尊さをどんなに教え示したことか。──それゆえに、私は、「映画への郷愁」を言う。
- 「過去への反逆」のこと
文学は、所詮、反逆精神の所産にほかならぬ、と僕は、信じている。反逆するべき何物もない世の中が出現したら、文学などは不用である、と僕は、信じている。とはいえ、過ぎ去った時代に反逆したとて何になろうか。僕のとぼしい文学史の知識でも、洋の東西を問わず、偉大な先人たちは現実世界への反逆に生死している。しかし一時代前、一時代前と時代遅れに反逆して作家活動を続けることができるのは、「賢明」なことに違いない。日本文壇には、この種の「賢明」な文学者が多い。ただ、芸術家の悲惨もその栄光も彼らの物ではないだけだ。
- 「真人間のかぶる」物でない帽子・その他
云云のごとき言いぐさは、現在の俗耳に入りやすい。だが俗耳に入りにくいことこそ、作家は、語るべきではないのか。
作家は、そのことを書いて文学にまで高めるためには、それを書くことによって痛手を負わねばならぬ。
- 「あけぼのの道」を開け
なにしろ総じて単数あるいは複数の人間を単に血統、身分、出生などによってのみ尊敬することも蔑視することも、ひとしく許されざる非人間的現象でなければならない。
- 籠れる冬は久しかりにし
- 創造の場における作家
1947
- 冬を越した一本の花
- 「理想人間像」とは何か
- 新しい文学的人間像
- 「小説の運命」について田舎者の考え
1948
1949
1951
- 運命の賭け
- 兵隊日録抄
1952
- 林と河盛とにたいする不等な攻撃
- 俗情との結託
-
- 高名な野間宏「真空地帯」批判である。大西巨人は、野間宏が軍隊を真空(=無菌)地帯と描くがゆえに俗情(=黴菌)と結託している、と批判している。近代世俗社会を俗語で描く雑なジャンルである小説は、俗情を不可避に孕んでいる。近代世俗社会(の一部分である軍隊)を真空(=無菌)として描くのが事実に基づかない(事実を隠蔽する)反動的姿勢であると同時に、近代世俗社会の孕む俗情(=黴菌)を無批判的に描くのもまた反動的である。つまり真空(=無菌=俗情隠蔽)と俗情(=黴菌=俗情屈服)は表裏一体をなしているのであり、社会を静態的に捉える点でも共通している。大西巨人は近代世俗社会を事実に基づいて俗情にまみれた社会として描きつつ、同時に俗情は批判的に描かなければならないと考える。近代世俗社会から俗情は拭えないのであり、しかし俗情を拭う運動を持続しなければならないのである。大西巨人にあっては社会が動態的に捉えられていることがわかる。
- 意図とその実現との問題 『静かなる山々』前篇批判
- 『鷗外 その側面』のこと
1953
- 現代「滑稽的」小説
- 「絶対的平和主義」の詐術
1954
- 青血は化して原上の草となるか
- 「過渡する時の子」の五十代
1955
- 畔柳二美の小説一篇
- なんじら人を審け。審かれんためなり
1956
- 栗栖訳フチーク出版問題
- 再説 俗情との結託
- あさましい世の中
おくがき
巻末対話 虚無に向きあう精神(柄谷行人・大西巨人)
単行本収録覚書
大西巨人文選1 月報 1996・8
- 短編小説『真珠』のこと 付けたり・ある意見書
- 一 坂口安吾作『真珠』のこと
- 二 ある意見書(多数意見および少数意見のことなど)