大西巨人の「太宰治」

『文化展望』1946年5月号所載のエッセイ「小説展望」*1に以下の記述がある。

太宰治『十五年間』敗戰以來目にふれた作品の中で、殆ど唯一の『過去への反逆』の無い作品。保身のを蔑視することの不賢明さと崇さと示してゐる好例。ただ、この作者は自分の身につけたポーズに甘えることを警戒すべきであらう。─『文化展望』創刊號

『思想運動』1998年12月1日号所載のエッセイ「太宰治作『十五年間』のこと*2に以下の記述がある。

 『文化展望』第二号・一九四六年五月号所載「小説展望」の中に、私は、『十五年間』を評して、〝敗戦後、僕の目に触れた限り、「過去への反逆」がない唯一の小説〟というように書いた。

2004年刊行長篇小説『深淵』第一篇「序曲」に以下の記述がある。

 ──大庭宗昔は、敗戦翌年(一九四六年)の春、彼の発表した二度目のエッセイに、太宰治作短篇小説『十五年間』[『文化展望』一九四六年四月創刊号]にたいする「敗戦後、僕の目に触れた限り、『過去への反逆』がない唯一の作物」という評語を書き入れた。······

『説林』第56号所載の「大西巨人氏から見た石川淳文学─大西巨人氏インタヴュー」(「二〇〇七年三月九日、さいたま市中央区円阿弥大西巨人氏宅にて」)に以下の発言がある。

狩野 太宰の『十五年間』については、《過去への反逆》がない唯一の作品と書いておられましたね。
大西 あれは、本当にそうですね。
狩野 『十五年間』の中に示された、サロン思想、サロンへの嫌悪感と、俗情への批判ということと、大西さんの中ではつながっているところがあるんでしょうか。
大西 ええ、そうです。


夕刊フクニチ』1948年6月17日所載のエッセイ「太宰治を偲ぶ」*3に以下の記述がある。

 短篇集『晩年』以来の久しい読者である私は、太宰の死を知り、「我々は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣はない。」(芥川龍之介西方の人』)というような思いを今更ひとしお深く感じている。しかし太宰の自殺死を哀悼することなどを、私は、つゆ考えまい。たとえ「水は器に従ふものだ。──かうしてお互ひに生きてゐるといふのは、なんだかなつかしいことでもあるな」(『ダス・ゲマイネ』)という言葉が現世の真理であろうとも、「三度目の真実」、いや、実地には五度目か八度目か、私は知らぬ、死に果てたる太宰は、ほとほと祝福せられるべきであるのではないか。かえって哀悼せられるべきは、生き残れる・なお耐えて生きつづけねばならぬわれわれであるのではないか。
 この世の真実を逆説としてしか語り得ないと考えた(そして逆説としてしか表現し得ないこの世の真実を凝視しつづけたと信じた)作家の悲劇は、窮余の自殺においてみごとな破局を完成し得た、と私は、せめて不謹慎に書くことによって、私自身を納得させておこう。
 (…)
 私は、文筆家・知識人の端くれとして、また『晩年』以下二十数冊の読者として、太宰の死に心をゆすぶられざるを得なかったままに、支離滅裂のことを忽卒に記したようである。

新日本文学』1959年7月号所載のエッセイ「批評の弾着距離」*4に以下の記述がある。

私は、なにも具体の「点数」だけにこだわる人間ではない。具体的点数が四十点であっても、そこにアルファがつけば、つまりそれが四十点アルファと評価せられ得る作品であれば、私は、それを五十点の小説よりも、場合によっては六十点以上の小説よりも、積極的に評価して、支持するのである。(…)二十数年前、『文藝春秋』の「新人特集」は、外村の『春秋』、太宰治の『ダス・ゲマイネ』、高見順の『起承転々』を、また『中央公論』の「新人特集」は、外村の『血と血』、高見の『私生児』を、それぞれ発表していた。具体的点数がおのおの何十何点であったにせよ、それらの鮮烈な作品は、当時たしかに何十何点アルファであったのである。

1976年1月12日発行の『特講 現代の文学レポート集Ⅱ 戦後文学の出発』所載の「作家訪問 大西巨人*5に以下の記述がある。

たとえば井上やすしという作家は良いものを書いているが彼はある線上から上にはいけないという感じ。だが太宰はドストエフスキートルストイなどと同じ線上にいるが彼はその下の位置にしかいられない。マイナー・ポエトという域からでられない気がする。それでも日本の明治以後の作家の中では才能をもち良い作品を書いている一人だナァ。
社会に対して何もむきになることをしないでその底をヨチヨチとなぜられようなところに彼のマイナス魅力があるんだナ

1981年刊行『日本掌編小説秀作選Ⅰ 雪・月篇』所載のエッセイ「日本の短(掌)篇小説について」*6に以下の記述がある。

 清潔なエロティシズムの極致を一筆で描き出した『満願』(太宰治)。その作者に、別の初期作品『ダス・ゲマイネ』がある。ある初秋の夕方、作中人物馬場数馬が、作中人物兼語り手「私」にむかって、「信じ切る。そんな姿はやっぱり好いな。あいつ(甘酒屋の菊ちゃん十七歳)がねぇ、僕のこの不精鬚を見て、幾日くらゐたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらゐでこんなになってしまふのだよ。ほら、じっとして見てゐなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教へたら、だまってしゃがんで僕の顎を皿のやうなおほきい眼でじっと見つめるぢゃないか。おどろいたねぇ。君、無智ゆゑに信じるのか、それとも利発ゆゑに信じるのか。ひとつ、信じるといふ題目で小説でも書かうかなぁ。AがBを信じてゐる。そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て来て、手を替へ品を替へ、さまざまにBを中傷する。──それから、──AはやっぱりBを信じてゐる。疑はない。てんから疑はない。安心してゐる。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。ははん。」と言う。
 (a)太宰がその作品多数おのおののどこかに「つまらない小説だね。ははん。」というような言句を明示的にか暗示的にか書き入れずにはいられなかったこと、(b)そういう含羞擬態的シニシズムが彼の文学一般を否定的に制約したこと、(c)たとえば『満願』はそんな余計な物・なくもがなの物を伴っていないこと、(d)太宰愛読者多数が(a)および(b)的側面にばかり傾倒したがること、──それらは、等閑に附すべからざる事柄であるが、

2004年刊行長篇小説『深淵』第一篇「序曲」に以下の記述がある。

太宰の文学にたいする麻田の積極的な関心は、これまた太宰の文学にたいする大庭伯父の実はたいそう両面価値的な関心に由来した。······
 太宰作『ダス・ゲマイネ』にたいする麻田の愛好も、そんな経過の中で生まれたのであった。······「八十八夜。──妙なことには、馬場はなかなか暦に敏感らしく、けふは、かのえさる、仏滅だと言ってしょげかへってゐるかと思ふと、けふは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわらぬやうなことまでぶつぶつ呟いてゐたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛蟲、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰囲気をからだぢゅうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでゐたのであるが、」[『ダス・ゲマイネ』]。······いま麻田が夢路公園内の外灯に照らし出された葉桜から「八十八夜」や「晩春初夏の季節」やを連想するのは、それらの言葉が忘れがたく印象深く『ダス・ゲマイネ』に出ていて強固な観念連合の種を彼の内部に植え付けたせいである。
 麻田は、彼自身の「八十八夜も間近な」という思考内容を大庭伯父ないし太宰治の文学一般ないし太宰作『ダス・ゲマイネ』との関連において反省した。

『季刊at』2号所載の高橋源一郎との対談「文学の「本道」を行く」(「二〇〇五年十一月十四日、大西邸にて」)に以下の発言がある。

大西──どこかで、あなたは太宰治がとても好きだと、書いていましたね。
高橋──ええ、太宰もすごく好きなんですが、太宰の面白いところは、言葉を公に発する者は責任を負わなければいけない、後でこっそり訂正するような言葉は使うな、というところと、最近の吉本さんの対談集のタイトルでいうと「だいたいで、いいじゃない」というような(笑)、いい加減なところの両方があることなんですね。
大西──太宰治は能力のある人だと思います。とても有能の士だと思うんですがね、もう一つ二つふんばったら大きい小説に達することができたんじゃないか。しかし、桜桃忌ですか、ああいうところに集まる太宰ファンの大部分は、太宰の持っていた、そうでない弱いマイナス面にばかり······
高橋──太宰のそういうところを愛しちゃってますからね。
大西──しかも自分の、人間としての弱い、まずい点をね、優しく頭をさすってもらうようなところで、太宰に接近している。
高橋──彼は読者を甘やかしますからね。
大西──うん、そういうところを感じますね。

『説林』第56号所載の「大西巨人氏から見た石川淳文学─大西巨人氏インタヴュー」(「二〇〇七年三月九日、さいたま市中央区円阿弥大西巨人氏宅にて」)に以下の発言がある。

山口 石川淳から少し離れますが、太宰治にも『文化展望』への寄稿を依頼されて、創刊号に『十五年間』(一九四六)が載っています。大西さんは、けっこう太宰がお好きだったのかなという印象です。太宰について何度か書かれてますよね。比較的最近の『二十一世紀前夜祭』に載ってるエッセイ『太宰治作「十五年間」のこと』の中でも、《一九三五年ごろからの太宰の作物多数に積極的関心をもって接してきた私》とお書きになってましたが、作品集『晩年』(一九三六)とか初期の頃の太宰作品をどんな風にお読みになっていたのか、伺いたいのですが。
大西 『ダス・ゲマイネ』(一九三五)なども······、あれはとても好きでした。
 なんて言うかなあ、とても才能のある人だと思うんです、太宰治という人は。しかし、······、この人はもうちょっと考えを変えたら、本当の大作家になるんだがなあ、というような感じなんだけども······。それをどういう言葉で表わしたらいいかなあ······。何かあることを言って、そのAということ、大事なことを言って、しかし、それを帳消しするように、自分でですよ、「へえ、Aがいいなんていうことを言っている······」と付け加えて言うのですよ。帳消しというのが、一つのポーズみたいな風でね。それをやめたらいいと思う。
 『満願』(一九三八)なんかはそれがないんだよ。『満願』の方に進んだら、偉い、大きな作家になってたと思うんですけどね。しかし、好きではあるんですよ。
 好きではあるけれどね、でも、例えば桜桃忌とか言ってなかなか人気でしょ。あの太宰の愛読者連中というのは、だいたい、自分の弱み、泣きどころをさすってくれるのを太宰に求めて、それで太宰人気というものが起こっている。それは、その連中が駄目なんだけれども、太宰本人がまた、そういう者を集めるものを作ってると思う。そういうような感じですね。
 だけどあの、なかなか面白いよね、読んで······。ほら、『老ハイデルベルヒ』(一九四〇)でも······。

『社会評論』〇八冬(152)号所載の「〈インタビュー〉文学をめぐる複眼的思考の衝撃 大西巨人氏、『地獄篇三部作』を語る」(「二〇〇七年十月八日。聞き手/山口直孝」)に以下の発言がある。

──文壇ジャーナリズムに対する批判は、芥川龍之介太宰治が作品で試みていますが、そこから触発されるようなことはなかったでしょうか。
大西 (…)これは、持説だが、太宰は人生に対して否定的な態度を取り、何もしなかったり、懐手をしていたりする弱さがしばしばある。太宰の読者の中には、傷を舐めてもらうような気持ちを作品から受け取って満足する人もいるが、そのような読者は太宰のマイナス面で癒されているにすぎない。多くの作品は弱点を抱えているが、『満願』などは、いい作品だね。『ダス・ゲマイネ』も「ダス・ゲマイネ」つまり市民の積極面がよく現われていて評価できる。
 (…)
太宰も芥川も才能はあるが、もう一つどうかすれば本当の大きな作家になっていただろうという感じを持つな。現代物の『路上』(一九一九年)が途中で挫折したように、芥川は長編小説を書くことができなかった。太宰にはいくつか長編があるが、大長編を作り上げる構想力は、やはり不足していたんじゃないか。太宰という人には、何か一つのことを言った後で、「へへん」と自己韜晦してしまうところがある。そういうのではなく、真っ当に「何々である」と言い切る精神があればよかったと思う。

『季刊メタポゾン』2011年冬創刊号所載の「連載語り下し/大西巨人短歌自註「秋冬の実」第1回」(pp.277-278)に以下の発言がある。

──ああ、判りました、有象無象は、どう転んだって駄目と。
「うん。」
──その基盤は、あのぐらいのレベルでないと駄目と。だけど、あのぐらいのレベルのものが必ずしも全部いいとは限らない。徒花も咲くかもしらん。
「うん。」
──でも、美しい花も咲くかもしらん。その最低限の土壌のレベルに達してなかったら、お話にならん(笑)。
「今【君の】言うた通り。」
──じゃあ、その、たとえば飛び込むのを肯定するのは、肥沃な土地に咲いた徒花であると。
「そうそう。」
──肥沃じゃなかったら、徒花も咲かないと。
「うん。」
──ということは、徒花が咲くことは許容するわけですね、創作の過程において?
「許容······許容する、ちゅうことだな。しかし、奨励はしないけどね。」
──小説でもそうですか、作家でも。まあ、あって当然なんでしょうけど。あの作家のあの作品は、肥沃な土地だが徒花だという話があります?
「太宰やろ。」
──ほう······。太宰は、たとえば何が徒花ですか。
「ま、言うならば全部徒花だ。」
──(笑)ああ、そうですか。それはすごい話ですね。徒花の中に、ちょっと綺麗なものがある? 一見、綺麗な。
「そりゃ、あるよ。」


上記箇所のほかに「ダス・ゲマイネ」からの引用・への言及が、『地獄篇三部作』第一部「笑熱地獄」、『地獄変相奏鳴曲』第四楽章「閉幕の思想 あるいは娃重島情死行」、『三位一体の神話』第四篇「近景」にある。


大西巨人太宰治追悼文
大西巨人は『夕刊フクニチ』1948年6月17日に発表した「太宰治を偲ぶ」(①)を自著に三度収録している。
 最初が1969年刊行の『戦争と性と革命 大西巨人批評集』に改題して収録されている「太宰治の死」(②)である。二度目が1985年刊行の『観念的発想の陥穽 大西巨人文藝論叢下巻』に再改題して収録されている「「二十世紀旗手」の死」(③)である。三度目が1996年に刊行された『大西巨人文選 1 新生 1946-1956』に収録されている「「二十世紀旗手」の死」(④)である。
 これら三つの異同のある文章を読んで疑念を抱かされたのは次の個所についてであった。

『晩年』以来の久しい読者であって太宰の著書二十数冊を所有する私」(②)
短篇集『晩年』以来の久しい読者である私」(③)
短篇集『晩年』以来の久しい読者である私」(④)
長らく太宰の読者の一人であった者として」(②)
『晩年』以下二十数冊の読者として」(③)
『晩年』以下二十数冊の読者として」(④)

なぜ疑念を抱かされたかと云えば、これらの文章には次の個所を読むことができるからである。

『晩年』の作者の死に心をゆすぶられざるを得なかったままに、忽卒に支離滅裂のことを記したようである。」(②)
太宰の死に心をゆすぶられざるを得なかったままに、支離滅裂のことを忽卒に記したようである。」(③)
太宰の死に心をゆすぶられざるを得なかったままに、支離滅裂のことを忽卒に記したようである。」(④)

単なる「読者」が「太宰の死に心をゆすぶられ」て「支離滅裂」の追悼文を執筆するということに疑念を抱かされたのである。つまり、「読者」という素気ない語句と「心をゆすぶられ」「支離滅裂」という情動的な語句が釣り合わないと思われたのである。
2018年6月に太宰治没後70年を記念してであろう河出文庫から刊行された『太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて』には初出稿の「太宰治を偲ぶ」が収録されている。原文は旧字旧仮名表記であったろうこの文章を新字新仮名表記に改めての収録であるが、初出稿が単行本に収録されたのは初めてではないかと思われる。この初出稿において、上の引用個所は本来次のようであったことを知ることができる。

『晩年』以来久しい愛読者であった、そして太宰の著書二十数冊を所有する私」(①)
太宰の愛読者の一人であったものとして」(①)

初出稿においては「『晩年』の作者の死に深く心を揺ぶられざるを得ないままに、忽卒・支離滅裂のことを記した。」(①)という文辞に相応しく、「読者」ではなく、「愛読者」という語句を選択していたことが判明したのである。
他に(①)と(②)以降の注目すべき異同は次の個所である。

この世の真実を逆説としてしか語り得ず、逆説としてより表現し得ないこの世の真実を凝視し続けた作家の悲劇」(①)
この世の真実を逆説としてしか語り得ないと考え・逆説としてしか表現し得ないこの世の真実を凝視しつづけたと信じた作家の悲劇」(②)
この世の真実を逆説としてしか語り得ないと考えた(そして逆説としてしか表現し得ないこの世の真実を凝視しつづけたと信じた)作家の悲劇」(③)
この世の真実を逆説としてしか語り得ないと考えた(そして逆説としてしか表現し得ないこの世の真実を凝視しつづけたと信じた)作家の悲劇」(④)

太宰治の著書の「愛読者」であったと自任していた大西巨人は、いつの頃からか「読者」へと認識を改めたのと同様に、「この世の真実を凝視し続けた作家」という太宰治への評価は、いつの頃からか「この世の真実を凝視しつづけたと信じた作家」という評価へと改められ、「この世の真実を凝視し続けた」という評価は大西巨人による客観的な評価ではなく、太宰治の主観的な思い込みと見做されるに到ったのである。

*1:『文化展望』1946年5月号掲載「小説展望」の一部分が『大西巨人文選 1』所載エッセイ「「過去への反逆」のこと」である。

*2:『二十一世紀前夜祭』所載。

*3:「「二十世紀旗手」の死」と改題して『大西巨人文選 1』所載。

*4:大西巨人文選 2』所載。

*5:http://www.geocities.jp/seppa06/1312/onisi2.html

*6:大西巨人文選 3』所載。