大西巨人「年譜」の謎二件

講談社文芸文庫版『五里霧』所載の齋藤秀昭・編による大西巨人「年譜」に謎が二件ある。

    一件目
「年譜」には以下の記述がある

一九一九年(大正八年)
八月二〇日、父・宇治恵、母・須賀野の三男として福岡県福岡市鍛冶町で誕生。本名は巨人のりとで、父が命名。当時、父は中等学校に教師として勤務していた。
一九二五年(大正一四年) 六歳
四月、福岡男子師範附属尋常小学校に入学。

小学校令には以下の規定がある。

第五章 就学
 第三十二条 児童満六歳ニ達シタル翌月ヨリ満十四歳ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス
 学齢児童ノ学齢ニ達シタル月以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始ヲ以テ就学ノ始期トシ尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス

大西巨人が1919年8月生まれであるならば、「満六歳ニ達シタル翌月」である1925年9月に「学齢」に達したのである。「学齢ニ達シタル月以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始」である1926年4月が「就学ノ始期」となるはずである。にもかかわらず、1925年4月に尋常小学校に入学しているのが謎である。大西巨人が1918年度生まれであれば平仄が合うのである。
二松學舍大学人文論叢』第86輯所載の「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」における、山口直孝執筆の「「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」について」には以下の記述がある。

大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれ。

二松學舍大学人文論叢』第87輯所載の「大西巨人氏・大西赤人氏に聞く──浦和高校入学拒否事件をめぐって──」における、無署名だがおそらく山口直孝執筆の「本聞き書きについて」には以下の記述がある。

大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれの作家。

山口直孝大西巨人研究の第一人者であり、その山口が二度に渡り「大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれ」と記している以上、これは誤記・誤植ではないだろう。何らかの根拠があるのであろうが、とにもかくにも平仄が合ったのである。


    二件目
「年譜」には以下の記述がある。

一九三七年(昭和一二年) 一八歳
三月、福岡高校を卒業。
一九三八年(昭和一三年) 一九歳
四月、九州帝国大学法文学部法科政治専攻に入学。

1937年3月に高校を卒業して、1938年4月に九州帝大に入学するまでの空白の一年が謎である。大西巨人は『神聖喜劇』の東堂太郎や「閉幕の思想 あるいは娃重島情死行」の志貴太郎と同じく、福岡高校(F高校・鏡山高校)卒業後、東京帝大文学部に進学し、経済的理由から退学、帰郷して九州帝大(西海帝大)に入学したと推測できるのだ。
二松學舍大学人文論叢』第86輯所載の「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」(「二〇〇九年一二月一三日、さいたま市大西巨人氏宅で行われたインタビュー」)に以下の発言がある。

鎌田 小説では、東堂は東大にも数か月行きますが、経済的事情が理由で九大に戻ってくる。大西さんの場合も、ほぼ同じだと考えていいですか。
大西 うん。まあ、そんなものよ。

「空白の一年」が上記推測どおり大西巨人により確認された。