大西巨人の年譜と生年について

大西巨人が2014年3月12日0時30分に死去し、日本経済新聞が同日22時48分に訃報記事*1を配信している。この記事で、大西巨人の没年齢は97歳と報じられた。1982年1月刊行の文春文庫版『神聖喜劇』第一巻以降、大西巨人の著書には1919年(8月)生れと記されてきたのであるから、没年齢は94歳のはずなのである。97歳と報じられ、疑義を抱いた人もいたのである。
3月13日5時31分に配信された朝日新聞の追悼記事「高雅な文章・ユーモア」*2の中で、近藤康太郎は次のように記している。

 しかし、小説の主人公と作者を同一視する、日本的私小説の読み方を極端に嫌った。しばしば年齢を3歳若く間違われて雑誌、新聞に書かれたが「どうでもいい。(若く書かれて)かえってよろしい」と語っていた。
 3月13日12時頃、大西巨人の長男・大西赤人ツイッターで没年齢97歳と報じられた理由を説明した。 また、大西赤人は『日本人論争 大西巨人回想』の「あとがき」冒頭で以下のように記している。
 大西巨人は、二〇一四年三月十一日深夜──正確には三月十二日午前零時三十分、さいたま市中央区の自宅で死去した。その戸籍上の生年月日は一九一六年八月二十日であり、満九十七歳と六ヵ月余りの生涯だったことになる。
 近藤康太郎が追悼記事であえて生年問題に触れたのは、「年齢詐称」*3の声が出ることを予期してであろう。この追悼記事で近藤康太郎は「雑誌、新聞」に生年を「3歳若く間違われて」も大西巨人がこだわらなかったと伝えている。しかし、「雑誌、新聞」の間違いを訂正しないことと、著書に事実でない生年を記すこととを同一視することは妥当でない。大西赤人は「正しい日付を伝えたNHK神聖喜劇ふたたび』がむしろ過誤と受け止められた出来事などもあった」と記している。大西巨人の著書に1919年生れと記され続けたのであるから、過誤と受け止めるのが妥当である*4。また、「NHK神聖喜劇ふたたび』」が放送された2008年4月13日以後は、公表を戸籍上の1916年生れに訂正したわけでもなかった。大西赤人が責任編集(発行人)をつとめる『季刊メタポゾン』には、2011年1月の創刊以来、大西巨人のインタビューを連載してきたが、著者紹介に「一九一九年生まれ」と記されているのである。両氏の大西巨人の生年問題についての記述が言い訳めいて感じられるのは、戸籍上の生年を知っていながら大西巨人の存命中は黙っていたからである。


大西巨人没後に刊行された『日本人論争 大西巨人回想』に収録された年譜は、生年の1916年生れへの訂正を含めて、大西巨人生前に発表された文庫版『五里霧』収録の年譜とは差違が多々みられる。出生から新聞社入社までの記述を年譜から引用し、詮索してみたい。

まず、大西巨人生前における最も詳細な齋藤秀昭編「年譜」(講談社文芸文庫版『五里霧』所収)から引用。

一九一九年(大正八年)
八月二〇日、父・宇治恵、母・須賀野の三男として福岡県福岡市鍛冶町で誕生。本名は巨人のりとで、父が命名。当時、父は中等学校に教師として勤務していた。
一九二五年(大正一四年) 六歳
四月、福岡男子師範附属尋常小学校に入学。
 〔…〕
一九三〇年(昭和五年) 一一歳
四月、小倉中学校に入学。
 〔…〕
一九三四年(昭和九年) 一五歳
四月、福岡高校文科甲類に入学。
一九三七年(昭和一二年) 一八歳
三月、福岡高校を卒業。
一九三八年(昭和一三年) 一九歳
四月、九州帝国大学法文学部法科政治専攻に入学。
一九三九年(昭和一四年) 二〇歳
この年、左翼運動に携わったことで大学を追われ、中退。
一九四〇年(昭和一五年) 二一歳
この年、毎日新聞西部本社に入社。

「年譜」の末尾には以下の記述がある。

本年譜は作品譜として委細を尽くすことを目的とし、『大西巨人文選』全四巻をはじめとする著書の評論・エッセイ等を参考にしてまとめた。また、年譜中の著書の出版社名は「著書目録」に譲った。なお、著者の一閲を得ることが出来た。
 

次に、「年譜」の増補改訂版である「大西巨人詳細年譜」(以下「詳細年譜」、『日本人論争 大西巨人回想』所収)から引用。

一九一六年(大正五年)
八月二〇日、父・宇治惠、母・須賀野の長男として福岡県福岡市鍛冶町で誕生。〔…〕本名は巨人のりとで、父が命名
 〔…〕
一九二三年(大正一二年) 七歳
四月、福岡男子師範附属尋常小学校に入学。
 〔…〕
一九二八年(昭和四年) 一二歳
この年、教師の勧めで、尋常小学校五年修了で福岡県福岡中学校を受験。合格はしたが親の同意を得られず、小学校は六年まで通うこととなる。
一九二九年(昭和四年) 一三歳
四月、福岡県小倉中学校に入学。
 〔…〕
一九三三年(昭和八年) 一七歳
四月、中学四年修了で福岡高校文科甲類に入学。
 〔…〕
一九三六年(昭和一一年) 二〇歳
三月、福岡高校を卒業。九州帝国大学に合格するも、この年、入学手続きは行わなかった。
一九三七年(昭和一二年) 二一歳
四月、九州帝国大学法文学部法科政治専攻に入学。
 〔…〕
一九三九年(昭和一四年) 二三歳
秋(または冬)、左翼運動に携わったことで大学を追われ、中退。
 〔…〕
一九四〇年(昭和一五年) 二四歳
〔…〕この年、大阪毎日新聞社西部支社に入社(庶務部の傭員。翌年雇員となり、校閲部へ異動)。

大西巨人詳細年譜」の末尾には以下の記述がある。

本年譜は大西巨人五里霧』(講談社文芸文庫)所収「年譜」の増補改訂版である(生年等、大きく改めたところがある)。また大西赤人山口直孝両氏から貴重なご教示を頂戴した。記して感謝申し上げたい。


    年譜詮索
 1.
「年譜」と「詳細年譜」で共通しているのは、1939年に大学中退、1940年に新聞社に入社という点である。「年譜」においては大西巨人は1919年遅生れであり、高校卒業時には数え19歳であった。当時の学制では尋常小学校6年・中学校5年・高校3年であるから、滞りなく進学していけば、遅生れの人物は数え22歳で高校を卒業することになる。つまり、「年譜」における大西巨人は通常より三年早く高校を卒業したのである。「年譜」においては、尋常小学校に五年、中学校に四年在籍していることになっているので、これは大西巨人飛び級をしたのであろうと理解することが出来る。それでもまだ通常より一年早いのである。この一年の齟齬は、満7歳になる年度に入学する尋常小学校に、満6歳になる年度に入学しているという不可解な事実によってもたらされている。
 「詳細年譜」では「尋常小学校に、満6歳になる年度に入学」という不可解な事実は解消された。また、大西巨人尋常小学校では飛び級はしておらず6年修了であること、「年譜」では高校卒業から大学中退まで足かけ三年であったのが、足かけ四年であることが明らかになった。つまり、「年譜」で通常より三年早く高校を卒業することを可能としていた、尋常小学校入学時期・尋常小学校卒業時期・中学校卒業時期のそれぞれ一年の前倒しが、「詳細年譜」では中学校卒業時期の一年の前倒し以外は霧消し、高校卒業から大学中退までの期間が一年延長されることで、生年が1919年から1916年に三年前倒しされたにもかかわらず、「年譜」と「詳細年譜」は、1939年に大学中退、1940年に新聞社入社という点で共通しているのである。


 2.
「詳細年譜」には「教師の勧めで、尋常小学校五年修了で福岡県福岡中学校を受験。合格はしたが親の同意を得られず、小学校は六年まで通うこととなる。」とあるが、この記述の根拠になっているのは、「大西巨人短歌自註「秋冬の実」第二回」*5における以下の証言である。

──五年で福中に受かったけれども見送り、結局、小学校は六年まで通って、その卒業時点では、小倉中学を受けたということ?
「そうそう。」
 「教師の勧めで、尋常小学校五年修了で福岡県福岡中学校を受験」という記述は、飛び級での中学入試を題材とする小説「奇妙な入試情景」*6によっても裏付けられるはずである。
 ところが、上記証言と同年初出の「新・家の履歴書 大西巨人*7では以下のように証言している。
 尋常小学校の五年を修了した後、六年を飛び越して中学生になったんです。先生にすすめられてね。中学四年から高等学校に上がる者はめずらしくもなかったけれども、小学五修で中学に入った者はめったにいなかった。
 ここで、大西巨人は小学校5年修了と表明しているのである。おそらく、大西巨人は聞き手(石井千湖)に、自身が小学校5年修了時に中学入試を受け合格した稀な経歴の持ち主であることを語りたかったのであろうが、飛び級での中学校進学を見送ったという事は説明するのが煩瑣であったがゆえに省いたのではないか。


 3.
「年譜」「詳細年譜」には、福岡高校卒業から九州帝国大学入学までに一年間の空白がある点で共通する。
 エッセイ「博多東急ホテルのこと」*8で「私は、福岡市(博多)で生まれ、敗戦後六年まで主に福岡県内で──父の職業上あちこち住所を転々とし、転校のゆえ四つの尋常小学校と二つの旧制中学校とに通って──暮した。短い東京生活と約四年間の福岡県外軍隊生活とが、その間に存在した。」と述べているが、「短い東京生活」の内容がこの時点では詳らかではなかった。
 しかし、「年譜」発表以後のエッセイおよび二つのインタビューでは以下のように述べている。
「今年こそ福岡へ」*9

 私は、福岡県福岡市に生まれ、学齢以前を福岡県内のあちこちで過ごし、小学・中学・高校・大学(いずれも旧制、大学は、一時期だけ東京)をも、おなじく福岡県内のあちこちで過ごした(大学は、結局のところ、退学処分)。
 「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」*10
鎌田 小説では、東堂は東大にも数か月行きますが、経済的事情が理由で九大に戻ってくる。大西さんの場合も、ほぼ同じだと考えていいですか。
大西 うん。まあ、そんなものよ。
 「大西巨人短歌自註「秋冬の実」第一回」*11
──「(上京して)」とただし書きがついていますが、それは学校【東京大学】の頃の話なんですか、それとは別に仕事で?
「『(上京して)』は、ありゃあ、二・二六事件の年じゃろうや。」
──二・二六の年(笑)。ということは、昭和十一(一九三六)年。ちょっと前の話ですね。
「うん。」
──その時は、つまり大学生。
「そうそう。」
 以上の引用文において、大西巨人東京帝国大学在籍を明言しており、「短い東京生活」の内容が判然としたのである。「年譜」発表以後のこれらの証言は「詳細年譜」に反映され、一年間の空白を埋めてよいはずなのだが、何故か空白のままである。*12大西巨人が1936年に福岡高校を卒業後に東京帝国大学に進学したのは間違いなく、『神聖喜劇』の東堂太郎や「閉幕の思想 あるいは娃重島情死行」の志貴太郎が、F高校/鏡山高校卒業後、東京帝国大学文学部に進学したのと同一の経歴である。
 東堂太郎の経歴は「年譜」における大西巨人の経歴と類似しており、志貴太郎の経歴は「詳細年譜」における大西巨人の経歴と類似している。四通りの経歴は以下のようにまとめることができる*13

東堂太郎・「年譜」・志貴太郎・「詳細年譜」の経歴
東堂太郎「年譜」志貴太郎「詳細年譜」
生誕1919年早生れ1919年8月1916年3月上旬1916年8月
尋常小学校入学1925年1925年1922年1923年
中学校入学1930年1930年1928年1929年
高等学校入学1934年1934年1933年1933年
高等学校卒業1937年1937年1936年1936年
東京帝国大学入学1937年───1936年───
九州帝国大学入学1938年1938年1937年1937年
九州帝国大学退学1939年1939年1938年1939年
新聞社入社1940年1940年1939年1940年


 4.
エッセイ「冬を越した一本の花」*14に「一九三九年〔昭和十四年〕、僕は、大学を追われ、世界戦争的時代現実の重圧の下に屈辱の生を保っていた。」とあるように、大西巨人の大学中退は1939年である。「年譜」では大学2年次に「左翼運動に携わったことで大学を追われ、中退。」とあったのが、「詳細年譜」では大学3年次の「秋(または冬)、左翼運動に携わったことで大学を追われ、中退。」になっている。小説「伝説の黄昏」*15には「彼は、「治安維持法」違反の廉で検挙せられたのであって、それとほぼ同時にあと半年で卒業見込みの大学を追われたのであった。」という記述がある。「あと半年で卒業見込み」での中退であるならば大学3年次の9月ないし10月であり、「詳細年譜」における大学3年次の「秋(または冬)」に中退という記述と符合する。


 5.
「年譜」「詳細年譜」ともに1940年に新聞社入社と記述されているが、時期は特定されていない。「兵隊日録抄」*16には「入社後最初の出勤の日、ちやうど独軍パリー突入のニューズが入り、社内は、騒然として殺気立つた光景であった。」とあり、小説『精神の氷点』*17には「水村の初出勤の日、社内は、ドイツ軍パリ入城のニューズに騒然として殺気立っていた。〔…〕それは、一九四〇年六月十四日午後のことであった。」とあるので、大西巨人の新聞社入社は1940年6月頃であろう。
 小説『神聖喜劇』の「第一部 絶海の章/第三 夜/七の1」には以下の記述がある。

 私は、入隊時から足かけ三年前*18の法文学部在学中、「左翼反戦活動」の容疑で検挙せられ、やや長い被拘禁生活を経験させられたあげく、辛くも証拠不十分の不起訴扱いとして釈放せられた。
 〔…〕
 退学翌年初夏(件の就職斡旋状到着後二、三カ月)、私は、北九州北端海港都市の大東日日新聞社西海支社(本社所在大阪ならびに東京)に入社した
 東堂太郎は「退学翌年初夏」すなわち1940年初夏に新聞社に入社しているのであり、大西巨人の新聞社入社時期と符合する。
 小説「連絡船 一九四一年十二月」*19には「桜井次郎が大日西海支社に──「治安維持法」違反容疑による逮捕・大学退校処分・長期留置・証拠不十分の起訴猶予ののち七ヵ月の日、──社会人として初の就職をし、福岡市の(両親の)住居から、門司市谷町の下宿・ある平家の離れ六畳へ越して来たのは、去年晩春のこと」という記述があり、「大西巨人短歌自註「秋冬の実」第二回」*20には次の証言がある。
──お茶を濁した。大学を辞めて入社するまでは、どのくらいの期間があったのですか。
「そうやなあ、どのぐらいじゃったろうかなあ······半年ぐらいじゃったろうか。〔…〕」
 ここでは入社が1940年「晩春」となっており、1940年の「六月十四日」ないし「初夏」とはややずれている。また、大学中退は入社の「七ヵ月」ないし「半年」前ということになっており、「伝説の黄昏」における卒業予定の半年前での大学中退とはややずれる。これらのずれは「詳細年譜」における「秋(または冬)」という曖昧な記述に反映されている。しかし概ね、大西巨人はエッセイ・インタビュー・小説で、1939年「秋(または冬)」に大学を中退し、1940年「晩春」または「初夏」に新聞社に入社したと述べているのである*21


    生年問題
 1.
「年譜」から「詳細年譜」への最も注目に値する変更点は、1919年から1916年への生年の変更である。では、1940年代後半に職業言論公表者として世に出て以来、大西巨人の生年公表の履歴はどうであったのか。
 鳥羽耕史は「世代論・座談会論・サークル論 花田清輝吉本隆明論争」*22の注36に次のように記している。
(36) 大西巨人の生年は『文芸年鑑』(新潮社)一九四九年版から一九五五年版までは一九一六年、一九五六年版以降および公式ホームページなどでは一九一九年とされている。しかし最近の漫画版『神聖喜劇』(幻冬舎、二〇〇六〜二〇〇七年)一・二巻の作者紹介では一九一八年(三巻以降は一九一九年)、二〇〇八年四月一三日放映のETV特集では一九一六年とされた。山口直孝氏によれば、ご本人が生年を明らかにしていないため、正しい生年は不明とのことである。
 『文藝年鑑』の名簿における大西巨人の記載は以下のようにまとめることができる。 

『文藝年鑑』における大西巨人の住所・生年月日
年度住所生年月日
1949〜1952福岡市友泉亭*23大正五年八月二〇日
1953新宿區西大久保一ノ四二一文學會館內*24大5・8・20
1954〜1955新宿區西大久保一ノ四二五文學會館內*25大5・8・20
1956新宿區西大久保一ノ四一〇*26大8・8・20
1957〜1959大宮市大成町1ノ546*27大8・8・20
1960〜1962大宮市大成町1ノ489大8・8・20
1963〜1964浦和市北浦和町2ノ100*28大8・8・20
1965〜1970浦和市北浦和町2-100大8・8・20
1971〜1975浦和市上木崎皇山559-22*29大8・8・20
1976〜1979浦和市上木崎559-22大8・8・20
1980〜1982与野市与野1273*30大8・8・20
1983小金井市東町4-30-2武蔵野コーポ101*31大8・8・20
1984〜1992与野市本町西4-11-4大正8年(1919)8月20日
1993〜2000与野市円阿弥5-5-4*32大正8年(1919)8月20日
2001〜2002さいたま市円阿弥5-5-4大正8年(1919)8月20日
2003〜2004さいたま市中央区円阿弥5-5-4大正8年(1919)8月20日

大西巨人は『文藝年鑑』の記載について「大西巨人インタビュー──真実の追求、歴史の偽造」*33で言及している。だが、石橋正孝からの質問に対する大西巨人の答弁は実に微妙である。この微妙さは、質問者に対して嘘はつかず、かつ質問者の誤解は温存しておく答弁をしているからである。

石橋 あのNHKの番組では、大西さんの歳についても、年譜と違ってもう九十歳になっていることになっていましたよね(笑)。
大西 『文藝年鑑』か何かで、研究家かジャーナリストが書いたんだよ。もっとも、大西はドイツで生まれたドイツ人である、と書いてあったら、私はドイツ人じゃない、日本人ぞ、となるが、福岡県生のところを、静岡県生になっていても、なにも言わない。つまり、年鑑類とかそういうものについて、私の文学観では、その人間がいつ生まれたか、あるいはどこの学校を出たのか、ということは関係ないということなんだ。東大であろうが、九大であろうが、あるいは早稲田であろうが、あるいは三井銀行に勤めていたとか、どっかの自営業でやっていたとかは関係なく、なんであっても作品があればいいんだ。
 「NHKの番組」(「神聖喜劇ふたたび」)では「今年3月、一人の老作家が、自らの原点となる地を歩いた。大西巨人、91歳」「大西巨人は1916年、大正5年、福岡市に生れた」というナレーションが流れるのである。石橋正孝は「『文芸年鑑』一九四九年版から一九五五年版までは一九一六年」と公表されていたことをこの時点ではおそらく知らないのであり、1919年生れであることを前提に質問しているのである。その石橋正孝に対し、大西巨人は、自分の戸籍上の生年は1916年であり、NHKの番組は「正しい日付を伝えた」のだと答弁すれば明快であった。しかし、大西巨人は、『文藝年鑑』1956年版以降の誤記が、生年を1919年と公表し続けてきた理由であることを暗に示唆しつつも、石橋正孝の誤解を正すようには語らないのである。


 2.
大西巨人は誤記された生年を訂正せずに看過していたのであるが、そこまでは消極的受容といってよい。しかし、1982年刊行の文春文庫版『神聖喜劇』のカバー袖に印刷されている著者紹介には「1919(大正8)年福岡市に生れる」と記されているのである。この時点では、誤記された生年の積極的受容に踏み出している。しかし、著者紹介の記述は出版社が行うのであり、著者ではないと言えるかもしれない。では、以下に引用する二つのエッセイと一つの対談で述べていることはどうであろうか。
 「仆れるまでは」*34

 中野の口真似をして私が言うと、〝今年で私はますます八十に近づく。年約八十に私はおどろかぬが、自分私が中野とほぼおなじに年取ってしまったという露骨な事実には殆ど困っておどろく。そこには解せぬところさえある。私はいやになる〟。
 〔…〕
 〔一九九七年正月晦日
 「「はたを露骨に刺激する類の病的潔癖」について」*35
 いま私は、中野の真似をして、次のように書くことができる。
     ナウカ社版『中野重治詩集』にふるえたとき私は年十七だった。そしてあと数ヵ月で私は八十三になる。年八十三に私はおどろかぬが、自分私が中野[の歿年]より二つ以上も年取ってしまったという露骨な事実にはほとんど困っておどろく。そこには解せぬところさえある。
 〔…〕
〔二〇〇一年極月下浣〕
 大西巨人高橋源一郎「特別対話 文学の「本道」を行く」(「二〇〇五年十一月十四日、大西邸にて」)*36
高橋──今日はせっかくの機会なんで、いろいろお伺いしたいことがあって。これは雑談なんですけど、大西さんは一九一九年生まれですよね。
大西──ええ。
高橋──うちの父親が一九二〇年生まれなんです。
大西──じゃあ私はオヤジさんの世代やね。
 最初のエッセイで大西巨人は、「一九九七年正月」時点で「八十に近づく」つまり80歳未満であると公表しているのであるが、1916年生れであるならば、すでに満80歳のはずである。次のエッセイで大西巨人は、「二〇〇一年極月」時点で満82歳つまり1919年生れであると公表しているのである。最後の対談で大西巨人は、高橋源一郎からの質問に対して、1919年生れであることを肯定する答弁をしている。すなわち、大西巨人は誤記された生年を積極的に受容している。*37


 3.
大西巨人は、『文藝年鑑』1956年版から1919年生れと誤記され、その生年が一般に定着すると、その誤りを看過(「なにも言わない」)しただけではなく、その誤った生年を積極的に受容し始めたのであるが、その傍証として、大西巨人は1940年代後半(つまり1916年生れ公表期)発表の「白日の序曲」「精神の氷点」における(作者と近似した)主人公の年齢を、1956年以後(つまり1919年生れ公表期)に発表した改稿版において、約3歳若返らせていることを挙げることができる。
 まずは「白日の序曲」から。
 1948年版「白日の序曲」*38

 彼と彼女との關係が、知人から結婚を目的とする戀愛へと移行しようとした時、稅所篤巳は三十二歳
 〔…〕
 ──稅所篤巳と瑞枝との間にそのやうな會話が取り交されたのは、敗戰の々年の晩春
 1988年版「白日の序曲」*39
 彼と彼女との関柄が「知人」から「結婚を目的とする恋愛」へ移行しようとしたころ、税所太郎は二十九歳
 〔…〕
 税所と瑞枝との間で如上の事柄が話題にせられたのは、敗戦翌々年の晩春
 2007年版「白日の序曲」*40
 彼と彼女との関柄が「知人」から「結婚を目的とする恋愛」へ移行しようとしたころ、税所篤己は二十九歳
 〔…〕
 税所と瑞枝との間で如上の事柄が話題にせられたのは、敗戦翌々年の晩春
 1948年版では作者と近似した主人公・税所を1916年生れに設定しているが、1956年以後の1988年版および2007年版では3歳若くなり、1919年生れに設定が変更されている。

次に「精神の氷点」から。
 1948年版「精神の氷點」*41

 四年ぶりに水村宏紀が歩む鄕里の地方都市には、四年前、彼が二十六歳の心身を
 1996年版「精神の氷点」*42
 四年ぶりの水村宏紀が今日もたまたま歩む地方都市鏡山の中心部には、四年前の彼が二十三歳の五体に
 2001年版「精神の氷点」*43
 四年ぶりの水村宏紀が今日もたまたま歩む地方都市鏡山の中心部には、異国人たち──四年前の水村が二十二歳数ヵ月の五体に
 ここでも、作者と近似した主人公・水村の年齢を、「白日の序曲」と同様に、1956年以後の1996年版および2001年版では1948年版から約3歳若返らせている。


 4.
以下で記すように、1948年頃に執筆され、2007年に発表された小説『地獄篇三部作』にも同様の事態が認められる。しかし『地獄篇三部作』における主人公の年齢変更は徹底されていないがゆえに整合性が損なわれているのである。
 1948年を小説内の現在時とする『地獄篇三部作』の「第一部 笑熱地獄」には以下の記述がある。

《大螺狂人の日記より》
 〔…〕
〈三月二十日(土曜)〉
 〔…〕
戦争に四年、いのちありて──まことに「いのちありて」──復員後・早くも三年。こういう僕は、もう二十九歳。
 〔…〕
〈三月二十一日(日曜)〉
 〔…〕
一葉は、二十四歳で物故し、
 〔…〕
やがて樋口一葉の行年を自己の新年にかぞえねばならなかった。
 その年の暮れに、軍服を着せられたのだ。ひそかに刻苦して書いて・人知れず破り棄てた三篇の作品だけが、僕の戦前(入隊前)における仕事・二十五年間の生存の証明であった。
 上記引用文からは、大螺狂人が入隊時に25歳(「二十五年間の生存」)であり、1948年3月時点で29歳(「僕は、もう二十九歳」)であること、ゆえに1920年生れ*44であり、入隊したのは1944年ということになる。
 しかし、「戦争に四年」というのは、大螺狂人が軍隊に4年いたという意味であるのだから、25歳で入隊し、軍隊で4年過ごし、復員後3年(「復員後・早くも三年」)経過しているのであるなら、1948年3月時点では32歳であり、1917年生れでなければならない。
 大西巨人は、「笑熱地獄」の初稿では主人公・大螺狂人を1917年生れの32歳に設定していたはずであり、2007年に発表する際に主人公を3歳若くして、1920年生れの29歳に変更したのであろう。「二十五年間の生存」を「二十二年間の生存」に改めれば整合性が保てたはずである。しかし、入隊時22歳に変更してしまうと、数え25歳(満24歳)で物故した「樋口一葉の行年を自己の新年にかぞえねばならなかった」という記述と矛盾するので、この個所は初稿のままにしたのであり、年齢を変更した個所と変更しなかった個所が混在して、整合性が損なわれたのに違いない。


 5.
「歴史偽造の罪」を「一大重罪」とし、「歴史の偽造」を弾劾してきた大西巨人が、自らの生年の公表については、なぜ無頓着でありえたのか。大西巨人武井昭夫との対談*45で以下のように述べている。

大西 〔…〕少し話はずれるがね、今度『五里霧』が講談社文芸文庫に入り、齋藤秀昭という人が作った年譜が付いている。齋藤君は、一度うちにもやって来て、私が文章を発表した雑誌のことをいろいろと訊ねていった。例えば、一九五五年五月に、私は、「「哀しき少年」の問題」という批評文を「教育評論」という雑誌に発表している。この「教育評論」は、日教組が発行していた機関誌とは、別物。講談雑誌と同じ大きさで、小さな雑誌だった。小学校の校長をしていた人が社主で、編集担当も元学校の先生。半年に一回ぐらいの割で、私に原稿を依頼してきた。けれども、誌名が同じなので、齋藤君は、勘違いしたらしい。また、一九五二年十二月には「潮」という雑誌に私が「〝現代滑稽的小説〟論─『風媒花』および『手段』について」(『潮』一九五三年一月号)という文章を書いている。この『潮』も、現在潮出版社が発行している雑誌とは、全然違うもの。一九五〇年代に人生雑誌『葦』を刊行していた葦会の代表、後に、『あゝ野麦峠』を書いた山本茂美が発行人で、湯地朝雄君が編集を担当していた。しかし、齋藤君は『潮』がもう一つあると知らなかったので、最初見つけられなかったらしい。潮出版の『潮』は、当時まだ出ていないからね。この勘違いは、私の言っている歴史の偽造に結びつく可能性がある。本人が偽造しようとしてするのは論外として、本人がそのつもりがなくても、何かを見落としたり、知らなかったりすることで、歴史の事実が曲げられてしまうことは、往々にしてある。
 大西巨人は齋藤秀昭が「過失犯」として「歴史の偽造」をしかねなかったと述べているのであるが、先に引用したごとく「年譜」には「なお、著者の一閲を得る事ができた。」という付記がある。大西巨人は「一閲」した際になぜ「歴史の事実が曲げられ」た自身の年譜記述に対して訂正を求めなかったのであろうか。*46
 小説『神聖喜劇』の「第一部 絶海の章/第三 夜/七の6」には以下の記述がある。
⦅······そして「深淵としての人間」の問題として私が言えば、ある特殊個人における異常極端な潔癖は、しかもしばしば異常極端な不潔癖(?)を内包しがち(または同居せしめがち)なのである。
 「歴史の偽造」に対して「潔癖」であった大西巨人は、自らの生年の公表に関しては、「不潔癖」であったのだろうか。
大西巨人が『文藝年鑑』の誤記に淵源する1919年を長年自らの生年として公表してきたことには、なんらかの事情が伏在しているのではないだろうか。大西巨人作品の読者であれば小説「ある生年奇聞」を想起するであろう。この小説では実際上の生年(1922年)が戸籍上の生年(1920年)より二年遅く、実際上の生年度(1921年度)が戸籍上の生年度(1920年度)より一年遅い人物・大岩則雄について語られるのである。ここで、大西巨人戸籍上﹅ ﹅ ﹅ではなく、実際上﹅ ﹅ ﹅の生年月日はいつなのかという問いが浮上する。大岩則雄おおいわのりおの境遇を大西巨人おおにしのりとにかりそめに適用すれば、大西巨人の実際上の生年は戸籍上の1916年より二年遅い1918年、実際上の生年度は戸籍上の1916年度より一年遅い1917年度、すなわち実際上の生年月日は1918年早生れ(1918年1月1日〜4月1日)ということになるだろう。*47
 大西巨人研究の第一人者である山口直孝を中心にして行われた「大西巨人氏に聞く」と題されたインタビューが『二松學舍大学人文論叢』第86・87・88・89輯(2011年3月・10月・2012年3月・10月)には掲載されている。インタビューには前書きが付されており、第86輯には「(山口直孝)」と署名があるが、第87〜89輯の前書きには署名がない。しかし、すべて研究代表者である山口直孝執筆に相違ない。*48それぞれの前書きには以下の一節が含まている。
 「大西巨人氏に聞く──「闘争」としての「記録」──」*49
 本聞き書きは、二〇〇九年一二月一三日、さいたま市大西巨人氏宅で行われたインタビューを活字化したものである。〔…〕大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれ。
 「大西巨人氏・大西赤人氏に聞く──浦和高校入学拒否事件をめぐって──」*50
 本聞き書きは、二〇一一年二月二一日、さいたま市大西巨人氏宅で行われたインタビューを活字化したものである。〔…〕大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれの作家。
 「大西巨人氏に聞く──『神聖喜劇』をめぐって──」*51
 本聞き書きは、二〇一一年五月八日、さいたま市大西巨人氏宅で行われたインタビューを活字化したものである。〔…〕大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれ。
 「大西巨人氏に聞く──作品の場をめぐって──」*52
 本聞き書きは、二〇一二年二月一九日、さいたま市大西巨人氏宅で行われたインタビューを活字化したものである。〔…〕大西巨人氏は、一九一八年福岡県生まれ。
 2008年の時点では鳥羽耕史に対し「ご本人が生年を明らかにしていないため、正しい生年は不明」と答えていた山口直孝が、四度にわたり大西巨人を「一九一八年福岡県生まれ」と明記している事実は、大西巨人の実際上の生年が、戸籍上の生年である1916年ではなく、1918年であることを示しているのではないか。当然、山口直孝は『文藝年鑑』1949年版から1955年版まで1916年8月20日生れと公表されていたことを百も承知のうえで、1918年生れと明記したのである。大西赤人大西巨人の生年が戸籍上は1916年であるとしか述べていない。*53「漫画版『神聖喜劇』(幻冬舎、二〇〇六〜二〇〇七年)一・二巻の作者紹介では一九一八年(三巻以降は一九一九年)」という不可解な事実もあった。生年問題について山口直孝は追悼文「マルクス主義者の「宣言一つ」──『神聖喜劇』の核心」*54や追悼鼎談「大西巨人の革命と文学」*55で言及していないが、生前の大西巨人から実際上の生年月日について聞いていたのであろうか。

*1:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG12036_S4A310C1CC1000

*2:朝日新聞』2014年3月13日朝刊

*3:年齢詐称はいけません」、「産経ニュース」2014年4月13日

*4:https://yokoimoppo.hatenadiary.com/entry/20080517/1210979414

*5:『季刊メタポゾン』第二号(2011年5月)、『日本人論争』

*6:奇妙な入試情景 ①」「奇妙な入試情景 ②」「奇妙な入試情景 最終回

*7:週刊文春』2011年3月17日号

*8:『週刊ホテルレストラン』1999年2月5日号、『日本人論争』

*9:西日本新聞』2008年1月8日、『日本人論争』

*10:二松學舍大学人文論叢』第86輯

*11:『季刊メタポゾン』創刊号、『日本人論争』

*12:「官報二八〇二號」(1936年5月8日 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959282/9)における「東京帝國大學文學部〔…〕ニ於テ去月ヨリ孰モ入學ヲ許可セル者ノ氏名」には大西巨人の名を見出すことは出来ないので空白のままにしたのかもしれない。

*13:「娃重島情死行」では、九州帝国大学は西海帝国大学と仮構化されている。

*14:『文化展望』1947年1月号、『大西巨人文選 1』

*15:地獄変相奏鳴曲』

*16:『前夜』1951年9月号、『大西巨人文選 1』

*17:みすず書房

*18:1939年

*19:講談社文芸文庫版『五里霧

*20:『季刊メタポゾン』第二号、『日本人論争』

*21:「閉幕の思想 あるいは娃重島情死行」の主人公・志貴太郎は1916年3月上旬生れであり、1938年秋に大学を中退し、1939年年初夏に新聞社に入社している。

*22:現代思想』2008年8月臨時増刊号「総特集 吉本隆明 肯定の思想」

*23:「一九四五年/一〇月、二日に福岡県福岡市友泉亭(現・城南区友泉亭)に復員帰郷。」「一九五一年/初冬、福岡県嘉穂郡山田町上山田大橋の洋服店・溝口一義宅に妻と仮寓する(翌年春まで)。」「一九五二/三月末、九州から再び上京し、神田神保町の九州出版株式会社の一室(三畳)に住む。」(「大西巨人詳細年譜」)

*24:「一九五二年/八月、新宿区西大久保の新日本文学会館の一室(四畳半)に転居。そこに二年ほど住む。」(「大西巨人詳細年譜」)

*25:「一九五三年/秋、新日本文学会館移築工事の約一カ月間、中野重治宅に妻と仮寓する(移築工事終了後、再び新日本文学会館に戻る)。」(「大西巨人詳細年譜」)

*26:「一九五四年/この年、新宿区大久保の某屋敷の離れに転居。大家は極道の親分であった。」(「大西巨人詳細年譜」)。「新宿伊勢丹から四、五分のところにあるお屋敷の離れを間借りしたんです。大きな冠木門があって、敷地は二百坪くらい。転宅してから知ったけれども、大家はヤクザの親分だった。私たちの部屋は六畳です。ここで『神聖喜劇』を書きはじめました。」(「新・家の履歴書」、『週刊文春』2011年3月17日号)

*27:「一九五六年/春頃、埼玉県大宮市大成町に転居。」(「大西巨人詳細年譜」)

*28:「一九六三年/この年、埼玉県浦和市北浦和町に転居。」(「大西巨人詳細年譜」)

*29:「一九七〇年/この年、埼玉県浦和市上木崎皇山に転居。」(「大西巨人詳細年譜」)とあるが、「昭和44年7月20日初版発行」のカッパノベルス版『神聖喜劇』第三部奥付の住所は「埼玉県浦和市北浦和2-12-3」(「2-100」から「2-12-3」へ地番変更したと思われる)であり、「昭和44年10月15日初版発行」の『戦争と性と革命』奥付の住所は「浦和市上木崎皇山559の22」である。「新・家の履歴書」には「六一年七月に次男の野人が生まれた。〔…〕二年後、北浦和に転宅したんです。そこには六年住みました」「一九六八年、カッパ・ノベルスで『神聖喜劇』第一部が刊行され〔…〕翌年、〔…〕上木崎に引っ越すことができました」と述べている。1963年に北浦和に転居し6年住んで、1969年に上木崎に転居したのである。

*30:「一九七九年/初秋、埼玉県与野市与野に転居。」(「大西巨人詳細年譜」)

*31:朝日ジャーナル』1986年9月19日号初出エッセイ「いつまでも子供」には「先年、私の長男が結婚し、二人(美子および赤人)は、東京都小金井に新居を構えた」とある。つまり、この住所は大西赤人の住所であり、大西巨人の住所としては誤記であろう。

*32:「一九八九年/春、埼玉県与野市(現・さいたま市中央区円阿弥に転居。」(「大西巨人詳細年譜」)。『群像』1992年3月号初出小説「縹富士 一九九二年一月」には「与野市円阿弥六―六―五/尾藤臣人様」という記述があり、1992年7月のエッセイ「田植えと海とのこと」には「いま私は、三年前の春から埼玉県与野市の田園地帯(円阿弥五丁目)に住んでいる。」とある。2008年放送のETV特集神聖喜劇ふたたび〜作家・大西巨人の闘い〜」で撮影された家であり、大西巨人没後に「家も引き払われたため、大西巨人がいた場所はもはや存在しない」(山口直孝大西巨人蔵書が語るもの」、『週刊読書人』2015年3月13日号)のである。[https://goo.gl/maps/X02uN][https://goo.gl/maps/so82r]参照。

*33:『表象』03、『大西巨人 闘争する秘密』

*34:中野重治全集』第14巻月報、『日本人論争』

*35:『季報唯物論研究』第79号、『日本人論争』

*36:『季刊at』2号

*37:齋藤秀昭編「大西巨人作品収録本一覧」(山口直孝編『大西巨人──文学と革命』)で知ったインタビュー「民衆の根源的な〝元気〟をふるい立たせ発展させること 天の声は人権のラッパの声──「神聖喜劇」を完結した大西巨人」(あけぼの広報社編『人権と良心』1984年9月刊)の冒頭でインタビュアーに「先生のお生れは、何年ですか」と問われた大西巨人は「一九一九年、大正八年八月です。」と明快に応答している。このインタビューの初出紙は、『神聖喜劇』完結後であるから、1980年代前半の月刊『あけぼの』である。

*38:『近代文學』1948年12月号

*39:地獄変相奏鳴曲』

*40:『地獄篇三部作』

*41:『世界評論』1948年5月号

*42:「中篇小説『精神の氷点』のこと」(『大西巨人文選 3』月報)

*43:みすず書房

*44:『地獄篇三部作』は数え年表記、『社会評論』2008年冬号参照

*45:「対談=21世紀の革命と非暴力──新作『縮図・インコ道理教』をめぐって」(『社会評論』141号)

*46:小谷野敦江藤淳大江健三郎』には、「年譜を作成した齋藤秀昭氏もおかしいと思い、それとなく大西に訊いてみたが、「笑って答えず」状態だったという」との記述がある。

*47:大西巨人が、大岩則雄を3月8日生れ、志貴太郎を3月上旬生れ、東堂太郎を早生れに設定することで何を示唆したのだろうか。

*48:https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-22520198/RECORD-22520198seika/

*49:二松學舍大学人文論叢』第86輯

*50:二松學舍大学人文論叢』第87輯

*51:二松學舍大学人文論叢』第88輯

*52:二松學舍大学人文論叢』第89輯

*53:就学年度は戸籍上の生年月日に基づき役所から通知されるのであるから、戸籍上1916年8月生れの大西巨人は1923年に尋常小学校に入学し、1929年に中学校に入学。「鼎談 福岡に大西巨人氏を迎えて」(『福岡市総合図書館研究紀要』第10号、2010年)の注10には同窓会の名簿に「中学については「昭和八年三月第四学年修了後上級学校入学セシモノ」の頁に、高校については「第十二回昭和十一年卒業文科甲類」の頁にそれぞれ「大西巨人」の名前が載る。」との記述があるので、中学校は四年修了で卒業して1933年に高校に入学、1936年に高校を卒業後東京帝国大学に入学したのであろう。大学入学時点で戸籍上は数え21歳ということになる。ところで、大西巨人は小説『神聖喜劇』の東堂太郎や小説「ある生年奇聞」の「私と同年配のある男」を、数え19歳での官立大学入学者として設定しているのであるが、この設定は注目に値する。東堂太郎や「私と同年配のある男」は早生れに加えて小学校5年修了・中学校4年修了であるがゆえに数え19歳で官立大学に入学出来たのである。もし、大西巨人の実際上の生年月日が1918年早生れであるとしたら、1936年に東京帝国大学に入学した時点で数え19歳であったことになる。

*54:『思想運動』2014年4月15日号

*55:週刊読書人』2014年5月30日号