中井英夫の「太宰治」

「続・黒鳥館戦後日記」(『中井英夫全集―8』)

*1五月十七日(月)
 〔…〕
 昨日朝、太宰さんの家へゆく。奥さんが出掛けて、ひとりで子供の番をしてゐた。床もあげてないけどまあ上れといふので一時間ほど話をした。創刊号の扱ひ方をぷん/\むくれて具合わるし。
 全集をうれしさうになでまはし、中の紙を今度つからもつとよくするさうだとか、カバーの罫を何色にしたらいいかね。紺がいいかねといふので、緑が似合ふでせうといつておいた。やつぱりうれしいんだらう。「決定版」なんぞといふ可笑しさを、もう死なれちまふのかと思つたと皮肉をいつてやつたが、一向感じないらしく、いやいや二十巻ぐらゐにするんだなぞといふ。
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しかし、二人きりでしばらくでも話出来たのはうれしかつた。
 〔…〕

六月十六日 朝より雨
 太宰さんに会ったのは、丁度ひと月前の今日だつた。薄暗い部屋で、何か焦々してゐる彼と向き合つて一時間ばかり、全集の話、肺病の話、「人間失格」や「グッドバイ」のこと、老大家たちのこと。話は今に生々しい。
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八月二十六日 曇のち雨
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 凡百の小説家がなけなしの文才に頼つて、つまらない小説をかき続けてゐるのをおもふと、太宰氏の溢れる才能が何ともいへず好もしく、なつかしい。
 私はおそらく彼の眼に、たとへ様もなく嫌な男、ゴーマンで自信の強い、思ひ上つた青二才にうつつた事だらう。そんな男にまで「何故死なないんだ」と云はれて、頭から青タンでもひつかけられたおもひに、みぶるひしたこだらう。僕のかへつたあと水を浴びたかも知れない。
 その私がかうまで太宰氏を慕ってゐる、このギャップ。これは一重に私の性格のみにくさのゆゑに他ならぬ。もう自分の手に負へぬほど、不快きはまる、無知、ゴーガン、偏屈、──、──、──、ナントデモカケ、を身一杯にしよひこんだこの男が私だといふ、そのときに。
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「眠るひとへの哀歌」(『中井英夫全集―10』)

首──弔歌第二番


天使よ
あなたがとおのいてゆくとき。


ふたたび 翼をもち はばたいて去る日に
あなたの首わ土のうえにおかれ


いやらしい草に包まれた生首 かつと眼みひらき
ここに流された血の香いの新しさああその血をいつぱいに浴び
まだ生きついでゆかねばならぬわれら囚徒の


こよい ちいさく 眩ける祈りを うけたまえ


──太宰治氏に 48・6・18

「拾遺詩篇」(『中井英夫全集―10』)

断片
太宰治氏に



生きてゆくだけむだだよ 苦しむだけだよ己のよおに
 つめたい川へはまるだけのことだ よしたまえ 救いなんどわありやしないのです
(救いのある日わもう君わ作家でなくなつている)
ただただ暗いいつぽんみちで がさごそとうごめくお化け
(いえそんなものわ何でもないけんど)
そのうち君のからだから水がながれ出します
冷い冷い水だから ひいやりしてみんなとけてしまうのだ
よしたまえくるしむだけだよ いまのうちにおかえり
 うそでもない ゆめものがたりでもないのです ひつちやぶかれて すてられちまうんだ
美の塔? 美の城? ばかな ばかな ばかな
(そういいつづける先生の眼に涙があふれすぎている)


II  命短ク影長シ


いのちわちぎれた糸のよおにみぢかいのに
なぜ影わ このよおにながいのか西陽に
さむざむとうしろえながれ 風にふかれ
すでにわたしのものでわないこの流れ  48・6・18

「黒衣の短歌史」(『中井英夫全集―10』)

 10 ジョオカア
 ところでその太宰さんに死んじまいなという様なことを口走った──それも自殺のひと月ほど前のことで、尋ねると彼は留守番をしており、折から出来てきた全集をなでまわして、「君、君このカバアの色を来月から変えるんだがね、何色がいいかね」などとさも嬉しそうなのが私には癇に障った。生きてる癖に全集を出して喜ぶ位の人だったのかなどと思うと「もう死ぬのかと思いましたよ。」馬鹿なことを口に出した。のみならず勢いにのって「こっちが太宰さんの言葉で苦しんでいる時こうやって御本人が生きているのを見ると・・・・・・」いいかけた時はっと彼の顔色が変わった。そうして私はそう喋ったことさえ深くも気にとめなかったのだ。今更私に彼を語る何の資格があるだろう。ジョオカアは道化の奴である。しかし此の時のこのジョオカアぐらい正真正銘の馬鹿はいなかったかも知れない。お約束のジョオカア、とらんぷの最後の一枚は、つまりこの不器用な手品師、私自身に他ならぬ。

「禿鷹 ──あとがきに代えて──」(「見知らぬ旗」『中井英夫全集―2』)

 〔…〕
太宰を訪ねたのは『新思潮』の編集者として、異例の原稿依頼に行ってからのことだが、当時いちばんの流行作家のこととて、めったに会えなかった。たいてい道傍で、まだ小さかったお嬢さんに出逢い、
「お父ちゃまは?」
 と訊ねると、黙ってかぶりをふる。でなければ玄関までいって、オヤ弟さんかなと思うほど似た小山清氏から、不在の詫びをいわれたりするぐらいだったが、それでもたまにはインバネス姿の太宰につれられて、吉祥寺へんの飲屋にゆくこともあった。
「一刻も早くこの世におさらばしようと思ってね、ウン」
 などと、きげんよく酔っぱらったり、よほど横光利一を嫌いだったものか、
「あれゃダメだよ、君。ぼくもね、『紋章』というのを初めの十ページほど読んでね、まんなかをまた十ページ読んでね、おしまいの十ページを読んでね、それだけさ。何もありゃしない」
 などという気焔や、
「君、『ヴィヨンの妻』はね、あれは実にもとがかかっているんだ、もとがね」
 等々の独自な喋りくちをおおむね黙って拝聴していた。ただ1度だけ私が、恥の記憶について話しかけ、先生の(私はどうしてか他の学生のように気やすく太宰さんとはいえず、さいごまで先生といっていた)何かの作に、恥の記憶が甦ってどうしようもなく、ただワアワアと雷神のごとく狂い廻りたいという表現があって好きだけれども、ぼくは何よりも先に思わず「あ、いかん!」と小さく叫んでしまうというと、かれはばかに共感して、
「そうかね、君もそうかね。ぼくもそうなんだよ。かならず、あ、いかん! というよ」
 と口迅にいい、
「そうかね、君もかね」
 そう繰り返しながら、さも珍しい生物でも見るように、あらためて私の顔を眺めたことがあった。
 こんなことで過ぎてしまえばよかったのだろうが、その死の一と月前だった。昼に訪ねたとき、他に客もなく、夫人もおられず、八畳の客間に二人だけで向き合っていたことがある。その日はちょうど八雲書店から『太宰治全集』の見本刷りが届いたばかりで、かれはきげんよくそれを撫で廻していた。当時の本のことで、仙花紙まがいのカバーは、紙質も刷りも上等とはいえないが、初めての全集の嬉しさは格別なのであろう、しきりとその朱いろをこするようにしながら、
「君、どうかね、この朱色は。よくないだろ。これをひとつ、緑に変えようと思ってるんだ」
 などと話しかけてくるのだった。
 無心なそのさまを見ながら、私はふいにカッとした。
 いったい、まだ生きている作家が“全集”を出すぐらい滑稽なことがあるだろうか、というのが当時の私の考えで、そりゃ確かに、存命中に二度三度と全集を出すほどの大作家はいるにしろ、その権威を嗤い、それを引きずりおとすのがこのひとの使命だった苦である。それを、朱いろも緑もあるものか。
 私は唐突にいった。
「先生。先生はよく、もうすぐ死ぬっておっしゃいますけど、いつ本当に死ぬんですか」
 顔色が変る、という形容はそのときのためにあると思ったくらい、みごとに顔色を変えて私を見返したそのひとに、畳みかけてまた私はいった。
「いつも死ぬ死ぬといってるひとが、いつまでも死なないでいると、何だか変な気がしてしようがないんですよ」
 なぜ、そこまで念を押すようなことをいったものか、いまはもう判らない。そしてこのあからさまな面罵に、苦笑し、顔を歪めながら、人間そう簡単に死ねるものじゃないという意味のことを咳いただけだったのは、ただ呆気にとられていたせいであろう。そのとき私はむしろ昂然としていたからである。
 この日からちょうど正確に一か月して自殺した太宰は、むろん全集もかたみのつもりで撫でていたに違いない。それを、いわばゆきずりの学生からいきなり罵られ、こんな奴にまでという無念の思いで見返すはかなかったのだろうが、その怒りはすぐ憐憫に変ったと、せめていまは思いたい。
 〔…〕
 ところで私の右手に、首吊人の踵の冷たい感触がいつまでも残っていたかというと、これはまったくなかった。それどころか、私はそんなことを喋ったことさえもすぐ忘れ、太宰の死後には『弔歌第二番』という、しらじらしい追悼の詩さえノートに残している。
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(「ちくま」一九七〇年二月号)

「見えない遺書」(「ケンタウロスの嘆き」『中井英夫全集―6』)

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ことにも著名な太宰治三島由紀夫両氏については、私自身そのひとりの生前に禿鷹宣言をしただけ、これはこの先いつまでも、やりきれぬ自分自身の腐臭に悩まされ続けるに違いない。二十四年前の太宰治氏の死など、もういいかげん頭からぬぐい去ってもよさそうなものだが、それは脳のひだにくろぐろとしみついて、こびり落とすこともかなわぬらしい。昨年の夏、ひとりで次のような戯文を記し、太宰治文体模写の中で、その死を突っぱねてみようと試みたのだが、ペンばかりか顔まで硬ばる気がしただけであった。



思い。
ただそれだけで、小説を書いたひとが、いた。自分の思い。無念やるかたない、あるいは、身を灼く、恥。涙こぼるる寸前、つと笑ったふうに手をふり、いっさい、何でもないのです。ただちょっと、しびれがきれて、うまく立てないや、などと安心させ、それを美徳と信じこんでいた。そのひとの文体は、いきおい、こんなふうに、きれざれ、何かいいかけては、違うといい、少しでも本音をさとられぬよう、心がけておりました。
 あほくさ、と、いまはいいたい。何をそんなに、上眼づかい、ちろちろと、相手をみる必要があったのです。誰を、恐がっていたのか、わたくし、判りませぬ。そうして、そのひと、ついに玉川上水へ身を投げ、パピナール、何錠のんだか知らねど、いけませぬ。そこは、名のとおり「上水」。都民の、水道の水。うちで水道の水ひねって、あなたの隠し入れた金歯、ふいに蛇口より流れ出るなど、これは論外。わたくし、あなたをからかう気、毛頭なけれど、でもその甘え、すべて上眼づかいゆえ、がまんならず、ただ、その次にあなたを嫌いだ嫌いだといい続け、さいご腹切って死んでいった作家については、ああ書けない。・・・・・・



 書けないといいながら、このあと三島からさらにさかのぼって芥川までの文体模写を試みたものの、それによってその死の本質に迫り得るものではなくまたみっともなく生き残った者が、かりに本質とやらに迫って何になるのだろう。三島由紀夫氏の死を私はどんなイデオロギーで割ろうとも思わないが、日本刀を用いたというのがその直後にはなんともがまんがならず、アルファベットのなかで、とくに嫌いなK音だけを順につらねて、次のような哀悼歌を作った。


  くさぐさをけりけちらしてことごとくかぐはしきかなきみがきりじに
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(「別冊・週刊読売」一九七二年六月)

中井英夫特別インタビュー 『黒鳥館戦後日記』から『黒衣の短歌史』の時代へ」(『中井英夫全集―10』)

山内 第一四次「新思潮」の創刊号に、太宰治の『朝』という小説が載りますが・・・・・・。
中井 太宰と坂口安吾宮本百合子、それに石川淳。その四人が流行作家だったんでね、なかなかくれなかったですよ。粘ったから、仕方ないと思ったんでしょう。短いものだけど、書いてくれたんです。原稿は売っちゃったんですけどもね。はじめね、椿(實)にあげたんです。だけど途中で取り返して、かわりに斎藤茂吉の原稿をあげたんです。原稿を売ったりなんかする習慣は余りなかったんだけど、太宰なら売れるだろうって、古本屋へ持っていったら一万円・・・・・・。翌月見にいったら、丁寧に額装して、五倍で売られていた。
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山内 太宰には自殺する一ヶ月くらい前に、お会いになっているんですね。
中井 そうです。ちょうど自殺する一ヶ月前に三鷹の家を訪ねてね。行きずりのどうでもいい学生なんかから、「いつ死ぬんですか」、なんて言われたらやりきれない。はっきり顔色が変わっていた。真面目に死ぬことを考えていたんだから。それを三島に話したらすごく喜んでね。自分も、「いつ死ぬんですか」って言われたようなことを、掌篇小説に書いていましたよ。それで本当に、あんな馬鹿な、無茶なことを・・・・・・。
山内 その頃、中井さんは太宰をかなり敬愛していたようですが・・・・・・。
中井 ええ、好きでしたね。手に入る限りのものは、高くて買えないものは別として、ほとんど読んでいました。
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一九九二年八月一三日──小金井・中井邸にて──

*1:一九四八年