那珂太郎の「太宰治」

続・那珂太郎詩集 (現代詩文庫)
那珂太郎「池畔遠望」(『空我山房日乘其他』青土社1985年)

同極月某日、天氣晴朗ナレドモ風ヤヤ強シ
庵ヲ出デ北西ニ行クコト十餘町ニシテ三鷹
更ニ十餘町ススメバ井ノ頭ノ池二至ル
木立ミナ枯葉ヲ落シスルドキ梢虛空ヲ刺セリ
水上ニ扁舟ヲ泛ブルモノ三五
櫂聲喃語ノピチャピチャノミ聞ユ
池畔ヲソゾロ行ケバ茶亭ノ前
路上ニ鈴振リブリキノ罐ヲ叩キ
半裸ノ若キ男女ノ群ガリ踊ルアリ
寒風二素肌ヲ曝シ脚ヒラキ身ヲクネラセ
行人ノ好奇ノ視線ヲ浴ビテ自ラ恍惚タルサマニ
卒然「ダス・ゲマイネ」ノ作者ノコト想起セラル
カノ巨軀ニシテ心弱キダダ作家ト共ニ
四十幾星霜ノ昔コノ茶亭二憩ヒシコトアリ
カレハ少年ワレヲ正視スルヲ得ズ
甘酒ヲワレニアテガヒ漣猗ニ目ヲヤリツツ
現文壇ノ誰彼ヲ舌鋒鋭ク非議シ
チエホフヲ讀ミ給ヘチエホフヲ! ト連呼セシガ
ソノカミ池上ニセリ出セシ緋毛氈ノ棧敷今ハ無シ
茶亭ノ嫗ニ聞ケバ、戰時中燒夷彈落下シ
舊ノ亭ハ失セ數十步離レシコノ地ニ移轉セシトゾ
イマ亭ニ坐シテ遠望スレバ
往時ノ鬱乎トシテ蒼蒼タリシ森ノアタリ
忽如トシテ浮城戰艦ニモ似テ高層マンション聳エ橫ハリ
窓ニシイツ洗濯物ラ旗ノ如クニ翩翻タリ
  (茫洋タルカナ
  オオ生存、オオ斜塔……)
近景ノ噴上ハマブシク白キシブキヲ散ラシ
朽葉ノ如キ追憶ヲタダ水底ニ沈ムルノミ


随想集 木洩れ日抄
那珂太郞「囘想的散策」(『正論』1994年5月号)

 昔の水族館は、水生物館といふ名で、園內の奥まつた所にあつた。ここへ來ると、半世紀も昔の、太宰治のことを思ひ出さずには濟まない。あれは昭和十五年三月のこと、高校二年の春休みに初めて太宰さんを訪ねたのだつた。當時彼は三十歳の新進作家で、まだ世間的にはさほど有名ではなかつた。新婚早早の彼が建賣住宅の三鷹下連雀に越して間もない頃だつた。私は「こをろ」といふ雜誌を始めた二年上級の矢山哲治に敎へられ、『晩年』『虛構の彷徨、ダス・ゲマイネ』などを讀み、太宰を訪ねたのだが、この新進作家は自分の部屋では疊の目に視線を落すばかりで、十代の高校生を正視もできぬ氣弱さうな人だつた。散步に誘はれ、新開地の下連雀からどこをどう步いたか、玉川上水沿ひに井の頭公園まで、着流し下駄ばきのあるじが競步のやうな速度で步くのを、追つかけるのが精一杯だつたのを、おぼえてゐる。太宰さんは切符を買つてくれて一緒に水族館に入つたものの、ガラスの槽の魚の群には一顧も與へず、ここでも競步さながらせかせかと館の中を通り拔けたのだつた。
 池畔の茶店の、池にせり出した棧敷で、太宰自身は燗酒一本、そして私には甘酒をとつてくれ、現文壇のつまらないこと、芥川賞を狙ふなどくだらないといふことを、こちらにそんな氣持など全くないのに、しきりに力說し、チェエホフを讀むことを勸めた。これは、かつて拙詩「空我山房日乘」中の「池畔遠望」といふ作品に書き留めたことがある。
 昭和十八年、大學が半年繰上げ卒業となり、海軍豫備學生として土浦海軍航空隊に入るときまつた時、再度太宰さんを訪ねた。もう二度と戻れるかどうかわからない、別れの挨拶に、といふ悲壯感めいた氣持もなかつたわけではない。
 こんども太宰は、吉祥寺の驛近くのガアド下の屋臺まで私を連れて行き、屋臺のあるじに、この人は明日戰地へ行くのだ、と紹介し、大皿におでんを一杯盛つたのを私に勸め、自分は手酌でしきりにお猪口をあふつた。戰時中のこととて客は稀だつたが、來る客ごとに、この人は明日戰地へ行くのだと、紹介をくりかへした。數日後に入隊するとはいへ、直ぐ戰地へ行くわけではないので、私は恥しく辟易するほかなかつたけれど、太宰さんの昂ぶつた氣持が推しはかられ、そのことに感動した。
 ──半世紀以上を經て往時を囘想すると、まるで前世のことのやうに懷しく、太宰さんのことが偲ばれるのだ。